西東京の民謡「棒打ち唄」とは何か? 麦を打つビートに乗せた農民たちの思いに迫る
西東京を代表する民謡「棒打ち唄」。その歴史について、編集者・ライターの小野和哉さんが解説します。昭和中期まで存在した脱穀法♪荻窪田圃(たんぼ)は 海なれば 釣竿(ざお)に 針つけあの娘(こ) 釣り出す 杉並区宮前出身の民謡研究家・竹内勉(1937~2015)が採集した「棒打ち唄」という民謡の歌詞の一節です。「荻窪田圃」は、中央線荻窪駅西寄りにあった田んぼのことで、大正時代に区画整理でなくなってしまったそうです。「海」という比喩からも、広大な水田地帯であったことがうかがわれます。中央線沿線ではちょっとおしゃれな雰囲気すらある荻窪に田んぼがあったなんて、誰が想像できるでしょうか。時代は変われど、書物やレコードに記録された「唄」が、在りし日の「東京」の姿を思い起こさせてくれます。 さて今回の記事で取り上げたかったのが、この西東京を代表する民謡である「棒打ち(ボーチ)唄」(麦打ち唄とも)です。 「棒打ち」の実演(画像:小野和哉) 東京の古い民謡について調べてみると、必ずこの「棒打ち唄」について多くのページが割かれています。同種の歌は、北は埼玉県北足立郡から、南は神奈川県の高座郡から厚木市まで分布していたようです。特に東京においては、多摩地方でよくうたわれていたようです。 棒打ちというのは、麦の脱穀の際に行う作業のこと。天日に干しておいた麦を庭先に広げ、複数の人間が向かい合って並び、「くるり棒(連枷・唐棹)」と呼ばれる竹製の道具を回し、麦の穂をたたいて麦粒を落としていきます。このような昔ながらの脱穀法は、大正時代に足踏み輪転機と呼ばれる道具が登場し、さらに機械式農具が普及する昭和中頃まで行われていたそうです。 棒打ちが行われる時期は6月。カンカン照りの日中に行われるため過酷な作業となります。打ち手の息を合わせるため、また作業のつらさを少しでもまぎらわすため、麦を打ちながらうたわれたのが「棒打ち唄」です。 唄を通じた色恋の駆け引き唄を通じた色恋の駆け引き 棒打ちにはたくさんの人手を必要とします。隣近所や親戚の人を頼って、打ち手だけでも10~15人の多人数になりました。 棒打ちを頼む家では、早朝から手伝いに来る人たちに食べてもらうお茶受け(さつま芋やじゃがいもを蒸したもの、あられ、おかき、ゆでまんじゅう、うどん、すいとんなど)の準備をします。人がいて、食べ物がある、まさにちょっとしたお祭り騒ぎです。当時の様子を思わせる文章を引用してみます。 「七月に男女が麦の穂先を中にしているとはいえ、ぐる輪になっている点では、盆踊り会場と似たような雰囲気である。しかも、手伝いの人たちに半分近くは女であるため、男たちは、どうしても女たちの気を引く、色の混じった文句を好んで唄ったのである。そうすると、豊島連中は、あっけらかんと唄で返して、男たちをやり込めていた」(竹内勉『東京の農民と筏師』p237) 1984(昭和59)年、国立市の中平自治会によって棒打ち唄が再現された際の模様(画像:くにたち郷土文化館) 実際に、どんな歌がうたわれていたかというと。次のような感じです。 ♪十七八は 気がついて 裏口を 細めに開けて 寝て待つ(東京都) →「十七八」というのは民謡の定型句で、17~18歳の若盛りの娘というニュアンス。 ♪お前さんいくつ なんのとし わたしかよ お前さんに抱かれて 子(寝)の年(東京都多摩地域) このような歌詞が、麦をたたくバスッ、バスッ……という鈍い音を拍子にして、うたわれていきます。歌の合間には「ッホイ、ッホイ、ッホイホイホイ」などあおるような合いの手が入り、棒打ちにもいっそう勢いがついたはずです。 「あけすけで、ざっくばらんな歌詞」 棒打ち唄に関する歌詞は数多く残されています。なかにはその場の即興で生まれた歌詞もあったようです。 特筆すべきは、棒打ち唄の歌詞の多くが、先ほど取り上げたような色恋に関するものだということ。ロマンチックなものから、とってもいやらしいものまで……。東京都国立市谷保の郷土研究家・原田重久も、つらい棒打ち仕事に明け暮れる庶民の気持ちを代弁して次のように言います。 「こんな唄でもうたわないことには、地獄の底のような激働の中では、どうにも仕事が続けられなかったのだ。こうしたときには、理性とか倫理観などはそっちのけで、人間の本能に訴えたむき出しのことば以外には効果がないということが言えるだろう。ことに農民や労働者のばあい、恋だの愛だのとお上品に遠まわしに言うよりも、あけすけで、ざっくばらんに表現された歌詞の方がより歓迎されたのである」(原田重久『多摩ふる里の唄』 p9) 1985(昭和60)年、埼玉県桶川市で収録された麦打ち唄のレコード。桶川も「棒打ち唄」文化圏である(画像:小野和哉)♪麦打ち唄は 伊達(だて)じゃない この唄はよ 暑さしのぎの 投節(埼玉県桶川市) 棒打ちがどれほど大変な作業だったのか、どういう気持ちで棒打ち唄をうたっていたのか、調べているうちに実際に自分でもその状況を体験してみたいという気持ちがムクムク。昔ながらの「棒打ち」の体験授業を毎年行っている学校があるということで、2021年7月15日に、連雀学園三鷹市立第一小学校(三鷹市新川)にお邪魔させていただきました。 人間の生存に直結した労働歌「棒打ち唄」人間の生存に直結した労働歌「棒打ち唄」「小麦の棒打ち」体験は三鷹市立第一小学校で、数年前より行われている取り組みです。地元農家が主体となって2010(平成22)年に設立された農業法人株式会社三鷹ファーム(三鷹市下連雀)の指導のもと、小学5年生の2月に「麦踏み」を体験、進級して6年生になってから収穫された麦の「棒打ち」に挑戦しています。 かつて三鷹では新田開発によって形成された農地を中心に、陸稲(おかぼ)、大麦、小麦などの穀物が盛んに育てられていました。しかし、1959(昭和34)年以降の都市開発で作付面積は減り、麦もほとんど栽培されなくなりました。 ところが、近年となって三鷹の農地保全を目的に小麦の栽培が復活。収穫された三鷹産小麦を使って作られたクラフトビールや食パンは、市の新しい特産物として大きな期待がかかっているようです。「麦踏み」や「棒打ち」の体験授業も、三鷹の子どもたちの食育や、地域伝統文化伝承を目的としたものです。 くるり棒。手に持ってみるとずっしり重い。これは重労働になりそう(画像:小野和哉) 三鷹ファームの農家さんで、リアルに棒打ちを経験した人はいらっしゃらないようですが、皆さん慣れているのか器用にくるり棒を使いこなして、麦を打っていきます。ただ力任せに柄の部分を上下させるのではなく、遠心力を利用して軸から先の打部をうまく操るのがコツのようです。 麦への打撃音は思っていたよりも大きく、高らかに響きます。麦の上で軽快にバウンシングするこの音で、棒打ち歌を口ずさむ声も弾んだでしょう。 31度の真夏日、熱線に頭がくらみそうに 実はこれまでの棒打ち体験では三鷹市民謡連合会協力のもと、棒打ち体験とともに「棒打ち唄」の実演もされていたようですが、この日は諸事情により出演できないことに。三鷹ファーム社長の岡田源治さんは「歌があったほうが風情あるし、張り合いも出るからね。(今回は残念だったけど)もちろん、次はやりますよ」と意気込まれていました。 この日の東京は31度の真夏日。ジリジリと刺すような熱線に頭がくらみそうになります。校庭のグラウンドが焼けそうです。かつて多摩の農民たちも、こんな日差しにさらされながらくるり棒を振るったのだろうか――そう考えると、少しだけ彼らの気持ちに近づけた気がします。 くるり棒がうまく回らず苦戦する子どもたち。みんなとても楽しげ(画像:小野和哉) 初夏の暑さのなか、何よりつらい棒打ち作業。しかし、生きるためには、この棒を振るわないわけにはいかない。歌でもうたって気をまぎらわすしかない。ひりつくような日々の営みと表裏一体となった、魂の叫び。棒打ち唄は生きるための「歌」だったのです。 ●参考文献 ・大館勝治,宮本八恵子 著『いまに伝える 農家のモノ・人の生活館』(柏書房)2004年 ・くにたち郷土文化館 編『谷保の歌が聞こえてくる~歌と共にみる村の暮らし~』(公財 くにたち文化・スポーツ振興財団)2013年 ・竹内勉『民謡地図(5)~ 東京の農民と筏師』(本阿弥書店)2004年 ・原田重久『多摩ふるさとの唄』(武蔵書房)1971年
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