小池徹平演じる橋本左内の弟「綱常」 日本赤十字社の発展に尽力した偉大な足跡を追う【青天を衝け 序説】
“日本資本主義の父”で、新1万円札の顔としても注目される渋沢栄一が活躍するNHK大河ドラマ「青天を衝け」。そんな同作をより楽しめる豆知識を、フリーランスライターの小川裕夫さんが紹介します。作中には武蔵国以外の志士が多く登場 NHK大河ドラマ「青天を衝け」は、俳優・吉沢亮さんが演じる渋沢栄一が主人公です。 その一方で、「青天を衝け」は渋沢を主人公としながらも草彅剛さんが演じる徳川慶喜、岸谷五朗さんが演じる井伊直弼、大谷亮平さんが演じる阿部正弘といった将軍・幕閣などが登場し、多くの時間を割いています。 武士が政をつかさどる時代において、多くの農民は歴史の表舞台には立てません。後世に名前を残すこともありません。それは、渋沢といえども同じでした。 しかし、幕末・明治維新期は変化の兆しもありました。 武士階級に属しながらも、それまでは家柄が低いために政治の中枢から遠ざけられていた人物が活躍できるようになっていたのです。その最たる例が、長州藩の下級武士の家に生まれ、初代内閣総理大臣に就任した伊藤博文といえます。 「青天を衝け」は渋沢を中心にストーリーが展開されていることもあって、舞台は主に武蔵国です。今のところ長州出身の伊藤が出てくる気配はありませんが、武蔵国以外の志士も多く登場します。 他藩の志士から一目置かれた橋本左内 幕末の志士のなかでも、近年になってウナギ上りの評価・人気になっているのが橋本左内です。「青天を衝け」では、小池徹平さんが演じています。 2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』のウェブサイト(画像:NHK) 福井藩士だった左内は、大坂の適塾で学び、福井藩で若きリーダーとなりました。左内は若く切れ物だったことから、藩主の松平慶永から信望が厚く、他藩の志士からも一目置かれる存在でした。 そして、水戸藩の藤田東湖や熊本藩の横井小楠などとも交流し、その見聞や思想は福井藩に大きな影響を及ぼします。 しかし、その才能がアダとなり、井伊直弼から「幕府を混乱させた」との理由で処罰されます。いわゆる、安政の大獄です。 江戸の回向院に葬られた左内江戸の回向院に葬られた左内 左内の遺体は江戸の回向院(荒川区南千住)に葬られましたが、その後に福井市内に移送されました。若くして非業の死を遂げたこともあり、左内は地元・福井で伝説的に扱われています。左内の墓地に接して左内公園が整備され、銅像も建立。現在は近隣住民の憩いの場となっています。 荒川区南千住にある回向院(画像:(C)Google) なにより、左内公園がある一画は左内町という町名がつけられています。こうしたことからも、左内が福井の人々から親しまれる存在だったことが伝わります。 左内は25歳で刑死したため、残した実績は決して多くありません。後世に足跡を残したという意味では、末弟・綱常(つなつね)の功績は左内に劣りません。 左内が家業である藩医を継がなかったことから、弟の綱常が継ぐことになりました。その綱常も福井で医者をするだけではなく、オランダ医学を学ぶため、幕末には長崎に遊学しています。その後、福井や江戸で医者として働きながら、医学向上のための研さんをつづけました。 パリ万博で赤十字を知った佐野常民 明治新政府が発足すると、綱常は医学の先進国とされていたドイツに留学。帰国後も明治新政府内で医療政策や医療のインフラ整備に奔走します。 綱常の功績のなかでも、特筆すべきが日本赤十字社の設立に尽力したことです。日本赤十字社の前身である博愛社は、旧佐賀藩士だった佐野常民(つねたみ)が設立しました。 左内公園内に建立されている橋本左内の立像(画像:小川裕夫) 徳川幕府が将軍の名代として徳川昭武を派遣した、1867(慶応3)年のパリ万博には渋沢も随行。そのとき、幕府とは別に佐賀藩もパリ万博にパビリオンを出展していました。この佐賀藩の責任者が佐野だったのです。 パリ万博で、佐野は敵味方の区別なく戦場で負傷した兵士の手当てをする赤十字という組織を知ります。 明治新政府が発足した後も国内は平和にならず、反乱が相次ぎました。佐賀藩でも幕末に思想的なリーダーだった江藤新平が新政府に反旗を翻しています。 広尾に建った日本赤十字社病院広尾に建った日本赤十字社病院 数多く発生した反乱のなかでも、特に西郷隆盛が首謀者となった西南戦争はおびただしい死傷者を出しました。 そうした反乱を通じて、佐野は赤十字のような活動をする組織が日本にも必要だと痛感し、設立を急いだのです。こうして、1877(明治10)年に佐野は博愛社を設立。初代総裁にも就任しました。 赤十字は国際的な組織ですが、当時の博愛社は違いました。国際的な組織となるためには、ジュネーブ条約に加盟しなければなりません。ジュネーブ条約の加盟にあたって、各国と調整を果たしたのが綱常です。 博愛社は1887年に日本赤十字へと改組。それに伴い、皇室から渋谷区広尾の御料地と病院の建設資金10万円が下賜(かし。身分の高い人が、身分の低い人に与えること)されました。 左側が1909(明治42)年の広尾周辺の地図。赤十字社病院の記載がある(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕) こうして同地に洋式病院が建設されます。病院を設計したのは、赤坂離宮も担当した片山東熊(とうくま)です。そして、開設された日本赤十字社病院の初代院長に綱常が就任し、没するまで院長を務めました。 「青天を衝け」の主人公・渋沢は、博愛社の設立時に社員として活動を支援。日本赤十字へと改組した後は、現在の理事にあたる常議員に就任。長らく活動をサポートしたのです。
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