黎明期のメンバーを見れば誰でも納得? 東京大学がやっぱり「別格」なワケ
偏差値ナンバーワン以外の魅力 東京大学(文京区本郷)は毎年3月から4月にかけて、「合格者高校別ランキング」など多くのメディアで取り上げられるほど、日本の大学の中でも特別な存在です。しかし特別と言っても、日本最初の国立大学、偏差値ナンバーワンという事実だけではありません。 東京大学の外観(画像:写真AC) 東京大学は起源をさかのぼると江戸幕府末期の学問所までたどり着き、江戸から明治にかけて多くの優秀な若者たちが門戸をたたきました。 黎明(れいめい)期の東京大学に在籍していたメンバーを見ると、その別格さが際だっているのがわかるはずです。特に誰もが触れたことのある文学や美術といった文化ジャンルに、多くの逸材を輩出しているからです。 今回は、東京大学創設の1877(明治10)年から1890年代にかけて在学・在籍していた人物を紹介し、特別視される理由を探っていきます。 学問所時代に在学した岡倉天心学問所時代に在学した岡倉天心 寺院や仏像などを破壊し、仏教を排斥しようとした廃仏毀釈(きしゃく)によって危機にひんしていた仏教美術を救い、「お雇い外国人」として東京大学の教壇に立っていた東洋美術史家のアーネスト・フェノロサとともに日本美術の再評価へと導いた岡倉天心は、東京大学に在学していました。 幕末の横浜で生まれ宣教師であるジェームズ・バラの塾で英語を学ぶなど、当時としては最先端の文化と教育に触れながら育った岡倉天心は、東京大学の前身のひとつである東京開成学校に1875(明治8)年、入学しました。 岡倉天心(画像:茨城県天心記念五浦美術館) その2年後、東京大学医学部の前身となる東京医学校と統合し、現在につながる東京大学が創立しました。当時、日本文学の近代化に貢献した坪内逍遥も在学しており、明治初期における東京大学の人材のすごみが伝わってきます。 大学卒業後の岡倉天心は先に述べたように、フェノロサとともに寺社仏閣の文化財流失や破壊行為を防ぐことに尽力しました。功績はそれだけにとどまりません。 東京芸術大学の前身となる東京美術学校の設立運営に携わり、1期生には横川大観など、その後の日本画壇をけん引する逸材を輩出しました。 活躍は国内に止まらず、卓越した英語力を生かしてボストン美術館の中国・日本美術部長の任を受けるなど、明治期に美術を通じて日本と世界との架け橋となったのです。 東京大学で学んだことでフェノロサと出会いが転機となり、日本美術を守り発展させる岡倉天心の人生を決定づけることになったのです。 森鴎外と夏目漱石の道のり 創立間もない頃の東京大学の卒業生の代表格として真っ先に名前が挙がるのは、小説家の森鴎外と夏目漱石です。 森鴎外(画像:森鴎外記念館) 漱石より5歳年上の森鴎外は、東京医学校と改称する前の第一大学区医学校の予科に実際より2歳年齢を偽り、14歳で入学した早熟の天才でした。 さまざまな学校で学んだ夏目漱石が1890(明治23)年に東京大学の英文学科に入学したとき、すでに23歳だったことを考えると、両者の道のりは対照的です。 海外留学という共通点海外留学という共通点 創作面でも両者は全く異なるスタートを切っています。 森鴎外は軍医として勤務する傍ら、28歳で初期の代表作「舞姫」「うたかたの記」を発表。本職のキャリアを積み重ねつつも、さらに翻訳の作業も行っていました。 一方の夏目漱石は38歳になる1905(明治38)年、「吾輩は猫である」を俳句雑誌・ホトトギスで発表し、文筆活動を始めたのです。 夏目漱石(画像:新潮社) 東京大学出身という以外のふたりの共通点を見いだすなら、当時の一般人にとってほぼ不可能だった海外留学が上げられます。 良くも悪くも、この留学は両者に大きな影響を与えました。東京大学に入っていなければドイツやイギリスへの留学の実現は困難で、小説家としての創作活動を行っていなかったかもしれません。 東京大学の存在がふたりの文豪誕生のきっかけを作ったと言っても過言ではないでしょう。 日本文学を見事に昇華した小泉八雲 夏目漱石は1903(明治36)年、母校の東京大学の英語教師として教壇に立ちました。その前任だったのは、国籍取得後に小泉八雲と名乗ったラフカディオ・ハーンです。 小泉八雲(画像:小泉八雲記念館) 1896年から東京大学の英語講師と勤務した小泉八雲は優れた教師という一面を持ちつつ、「耳なし芳一」などの日本で昔から聞き伝えられている怪談話を独自の感覚で昇華させ、発表しました。 単なる日本文学の英語化ではなく、欧米に長らく鎖国し情報が乏しい日本文化の根底に流れる自然崇拝や日本特有の、どこかはかなげな現世とあの世の交差する不思議な怪異を伝えたのです。 英語教師としての小泉八雲の人気は絶大で、後任の夏目漱石は、学生が八つ当たりも含め、冷たい態度で接してきたことなどが要因で心身ともに疲弊したと言われています。 それを見かねた高浜虚子が漱石に執筆を勧め、「吾輩は猫である」が誕生したのは何とも不思議な縁です。 文化への功績は桁違い文化への功績は桁違い 東京大学の黎明期は、日本美術や文学を高く評価していたフェノロサや小泉八雲といった外国人教員、新しい時代を担う志をもった若者が数多く在籍していました。 明治期の東京大学は海外との交流ができるまれな場所であり、そうした貴重な学びの場であるからこそ、後世まで語り継がれる偉大な人材を輩出したのです。 東京大学のある本郷通りの様子(画像:写真AC) もし東京大学がなかったら、美術界や文学界の損失は計り知れなかったことでしょう。数ある大学の中でも、「偏差値が高い」や「歴史が長い」だけでは片付けられない特別な存在価値が、やはり東京大学にはあるのです。
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