渋谷ヒカリエの前身 「東急文化会館」の夢と希望に満ちたプラネタリウムと映画館の思い出
1956年12月に開業し、2003年6月に閉館した渋谷駅前の東急文化会館の歴史と思い出について、ルポライターの昼間たかしさんが解説します。コルビュジエの弟子が設計 渋谷の街が再開発でどんどん近未来化しています。期待感と同時に、消えていった風景も思い出します。 特に懐かしいのは、渋谷ヒカリエ(渋谷区渋谷)が完成する前にあった東急文化会館です。銀座線から見えたプラネタリウムの円いドームは、夢と希望に満ちた渋谷の象徴でした。 そんな東急文化会館がオープンしたのは、1956年(昭和31)年のこと。当時の東急電鉄会長・五島慶太(1882~1959年)の指示の下、「文化の殿堂」を目指してつくられました。建物を設計したのは、近代建築の巨匠として知られるル・コルビュジエに師事した坂倉準三で、手掛けた作品はアンスティチュ・フランセ東京(新宿区市谷船河原町)や岡本太郎記念館(港区南青山)などが現存しています。 東急文化会館は地上8階地下1階で、オープン当初はプラネタリウムと四つの映画館、老舗を誘致した特選街、結婚式場、美容室などが入っていました。 建設計画が進んでいた頃、五島は社員を前にあることを言いました。 「文化会館の屋上に水族館をつくって、でっかいクジラを泳がせよう」 当時の渋谷は決して華やかとは言えない街だったため、インパクトのあるものを持ってこなくてはいけないと社員に発破をかけたのかもしれません。 社員は見当もつかないまま検討に入りますが、クジラが入るような巨大水槽を屋上に置くのは無理だと判明。そんなところに持ち上がったのが、プラネタリウムの設置計画でした。 投影機の価格は大卒初任給の7000倍投影機の価格は大卒初任給の7000倍 有楽町の東日天文館が空襲で焼けてしまったため、当時の東京にはプラネタリウムがありませんでした。 そうしたなか、天文・博物館関係者は「学術普及と子どもの教育のために」と、五島宛にプラネタリウムの設置を求める嘆願書を送ります。これが受け入れられ、プラネタリウムの建設は決まりました。 東急文化会館跡地に建つ複合商業施設「渋谷ヒカリエ」(画像:写真AC) しかし費用は想像以上に巨額でした。西独カールツァイス社製のプラネタリウム投影機IV型1号機は約7000万円。当時の大卒初任給は1万円前後だったことからもわかるように、超ビックプロジェクトだったのです。 設立に関わり、最後の館長を務めた天文学者・村山定男の回想によれば、五島はその計画を気に入り、準備委員会に顔を出して「キミ、宇宙はいいなあ。壮大で夢があって」といったといいます(『東京新聞』2007年1月21日付朝刊)。 五島は鉄道を軸とした街づくりをけん引した日本鉄道史に残る人物です。そんな五島ゆえに、さらに壮大なものを欲したということでしょうか。 解説員の解説を聞きながら半分眠る喜び 東京唯一のプラネタリウムは大いにうけ、修学旅行や遠足の生徒たちが立ち寄る場所になります。ちょうどオープンの年には、ソ連が世界初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功したこともあり、宇宙への関心が上昇。プラネタリウムは長蛇の列が並ぶ人気施設になりました。 また1969(昭和44)年に、アメリカのケネディ宇宙センターを飛び立ったアポロ11号が月面着陸した際には、その解説が徹夜で行われました。 しかし、都内にプラネタリウムが増え始めたとで利用者は減少。建物の取り壊し計画も立ち上がったことで、2001(平成13)年3月に閉鎖、東急文化会館も2003年6月に閉館となりました。そして跡地には、前述の「渋谷ヒカリエ」が2012年にオープンしています。 上は渋谷ヒカリエ、下は1980年代の東急文化会館(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕) 実際のところ、1990年代には既に「昭和レトロな施設」と見られており、プラネタリウムよりも、そのレトロさ目当てに訪れる人が少なくありませんでした。現在のプラネタリウムでよく見られるショー要素は少なめで、解説員が生で解説する「質実剛健さ」は都会の騒がしさを忘れさせてくれたのです。 解説を聞きながらうつらうつらすると、そこはまるで能のような幽玄の世界。筆者は一時、毎日のように訪れて、半分眠りながら解説を聞いていましたが、一度だけ投影機が途中で故障。「少しお待ちください」となる、貴重なハプニングを経験したことがあります。 数々の「歴史の場」となった東急文化会館数々の「歴史の場」となった東急文化会館 またプラネタリウムと並んで、東急文化会館の映画館は東京の「歴史の場」となりました。 1978(昭和53)年に『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』が封切られた際には、先着順でもらえるセル画を求めて行列が1週間前からでき始め、前夜には2000人を超える規模に。行列には中高生が多かったため、施設側は「徹夜は危ない」と整理券を配布しましたが、ファンはそれでも帰らず、映画館を仮眠場所として開放したのです。 その4年前となる1974年の『エクソシスト』公開時には、「最初の3日間しか映らない映像がある」というデマが流れて、初日に観客が殺到。渋谷駅東口バスターミナルを4000人が埋め尽くす事態となりました。そしていざオープンすると、群衆たちは階段を駆け上がり、入り口でチケットも見せずに会場へなだれ込むという事件も発生。幸いなことに、けが人はひとりも出ませんでした。 1970年代の東急文化会館(画像:国土地理院) 建物の中にある映画館は、1階が1000人超を収用できる渋谷パンテオン、地下が渋谷東急3、5階が渋谷東急、6階が渋谷東急2となっていました。 東急文化会館の階段に思い出がある人も多いのではないでしょうか。階段を使うのは、もっぱら渋谷東急(5階)か渋谷東急2(6階)で映画を見たとき。震えるほど面白かったか、逆につまらなすぎたか――とにかくさまざまな意味で心を揺るがす作品を見たときはエレベーターを使う気にはなれず、少し照明の暗い階段をトボトボと下りて心の震えを鎮めたものです。 筆者が特に覚えているのは、渋谷東急で『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997年7月公開)を見た後のこと。待ちに待った上映なのにやるせない気持ち……階段で何度も立ち止まりながら降りたあの日を、つい昨日のことのように思い出します。
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