初詣客No.1を誇る明治神宮の歴史が実はとっても浅いワケ
明治天皇を祭る目的で造られた 山手線の原宿駅西側に広がる明治神宮(渋谷区代々木神園町)は、元日に初詣客が日本一多く訪れる神社仏閣として知られています。明治神宮は内苑(ないえん)と外苑(がいえん)があり、両者のエリアはおおむね山手線の線路を境にしています。 そんな明治神宮ですが、ほかの神社仏閣と比べるとその歴史は短いにもかかわらず伝統を感じさせます。 明治神宮の様子(画像:写真AC) その名前が示す通り、明治神宮は明治天皇を祭る目的で造営されました。つまり、造営計画が持ち上がったのは大正に入ってからで、その歴史が浅いことは当然なのです。 歴代の天皇は、それまで京都に居住していました。明治天皇も京都で生まれ育ち、明治維新とともに東京へと住まいを移します。しかし、それまでの慣例から陵墓(りょうぼ。皇族の墓)は京都とされ、京都市伏見の桃山御陵に埋葬されました。 天皇の遺志を知り、渋沢は方針を変更 明治天皇の陵墓が東京から遠く離れた京都になったことは、東京人を悲観させました。そして、政財界有志が明治天皇の陵墓を東京に誘致する運動を開始します。財界の代表者は、資本主義の父として知られる渋沢栄一。政界の代表者は大蔵大臣を務め、現職の東京市長だった阪谷芳郎です。阪谷の妻は渋沢栄一の次女ですから、実質的にプロジェクトを主導したのは渋沢ということになります。 明治天皇の陵墓を東京へと誘致しようとした渋沢ですが、桃山への埋葬は明治天皇の遺志であることを知り、断念します。渋沢は方針を変更して、東京に記念となるモノを残せないかと思案します。そこで出てきたのが、明治天皇を祭る神社創建という案でした。 財界の重鎮である渋沢が動いたことで、政界内でも明治天皇を祭る神社創建が検討され始めました。そして、内苑は国が、外苑は民間が整備するという取り決めがなされて、プロジェクトがスタートしたのです。 もともと何もない荒涼とした土地だったもともと何もない荒涼とした土地だった こうした経緯から明治神宮内苑は神社として整備されます。一方、外苑は聖徳記念絵画館や国立競技場、神宮球場といった文化・スポーツ施設が並ぶエリアとして整備されました。内苑と外苑の趣が異なるのは、そうした経緯があるからです。 現在の内苑は鎮守の森とも形容されるように、豊かな緑をたたえ、多くの鳥が飛来する自然あふれる地になっています。東京のど真ん中に、このような自然が残っていることは奇跡――のように思えますが、明治神宮内苑の造営が開始された当時、一帯はまだ都市化していません。むしろ、何もない荒涼とした土地でした。 明治神宮の様子(画像:写真AC) そんな何もなかった一画が今は緑であふれているわけですから、逆の意味で奇跡と言えるかもしれません。 造営の指揮を執った林学者は当初反対 内苑の緑をどのように植栽するのか? 全権を任されたのは、林学者の本多静六でした。本多は日比谷公園を設計した実績があり、公園の父とも称されるほどの人物です。 しかし、当初の本多は明治神宮の計画に反対していました。東京のような枯れた土地で緑豊かな境内地をつくることは難しい。それが本多の意見でした。 林学界の大物である本多が、明治神宮の造営に反対していると、協力してくれる林学者はいません。困ってしまった渋沢は、本多の説得に動きました。 渋沢は井の頭公園の造成に取り組んだこともあり、林学者の本多とは以前から面識がありました。また、本多は渋沢を実業家として尊敬していました。尊敬する渋沢から熱心に説得されたこともあり、本多は根負けします。そして、明治神宮造営の指揮を執ることになったのです。 2020年に鎮座100年を迎える2020年に鎮座100年を迎える 本多が明治神宮造営の指揮をとることが決まると、本多を慕っていた本郷高徳や上原敬二といった造園・造林の専門家たちがプロジェクトにはせ参じます。さらに、伊東忠太や佐野利器、折下吉延といった建築物を担当する工学系の学者が加わり、内苑の造営は挙国一致体制で取り組まれました。 明治神宮の様子(画像:写真AC) 1920(大正9)年に鎮座祭が執り行われます。これによって、明治神宮内苑は“完成”します。しかし、鎮座祭が挙行された時点における内苑は、緑で包まれている状態ではありません。造営計画書には、50年後、そして100年後の未来を予測した植栽計画が盛り込まれていたのです。 鎮座祭の挙行から、2020年で明治神宮内苑は鎮座100年を迎えます。近年はパワースポットとしても人気を集め、若い女性の姿も多く見られます。また、外国人観光客も増えています。 人工的に造成された明治神宮の緑は、100年の歳月を経て自然と調和した森になっています。
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