なんと行列が建物を7回り半! 有楽町「日劇」の圧倒的伝説とは
かつて有楽町に「陸の竜宮」と称された日本劇場(日劇)がありました。さまざまなライブやアトラクションでにぎわった同施設の歴史について、フリーライターの大居候さんが解説します。夜の有楽町の象徴だった日劇 コロナ禍で動画配信サービスを見る機会が増えています。特に昔のテレビドラマを見ていると、オープニングやエンディングで東京の名所を巡っているものが結構あります。 1961(昭和36)年からNETテレビ(現・テレビ朝日)系列で放送された『特別機動捜査隊』の初期オープニングはパトカーが皇居の周辺をぐるぐると回っています。また、1969年から東京12チャンネル(現・テレビ東京)系列で放送された『プレイガール』のエンディングは、車載カメラで首都高を回っています。 オープニングやエンディングだけでなく、本編にも多く登場するのが夜の東京の繁華街です。かつて、東京の夜はビルのあちこちに据えられたネオンが輝いていました。 そうした風景でもとりわけ美しいのが、有楽町にあった日本劇場(日劇)です。東芝のネオンが劇場の全面を取り囲むように据えられ、夜の有楽町の象徴となっていました。 1933年完成、別名「陸の竜宮」 財界人から多くの出資を得て、収容客数4000人を誇る日劇が有楽町に開館したのは1933年12月24日のこと。当時は「陸の竜宮」と称されました。 在りし日の日劇。閉館半年前。1980年09月18日撮影(画像:時事)『文藝春秋』1981年1月号によると、工事が始まったのは1930年。運営会社の日本映画劇場が設立されて工事が始まったものの、工事費の支払いを巡るトラブルから、建設は一時中断。鉄骨を組んだだけで放置されていた時期もあったため、 「数寄屋橋畔の怪物劇場」 とも呼ばれました。 経営に乗り出した東宝経営に乗り出した東宝 そうした苦難を経て誕生した日劇ですが、4000人収容のキャパシティーは当時として大きく、しばらく客入りに苦労しました。 しかし開館翌年の1934年3月、ニューヨークから招いたレビュー団による「マーカス・ショウ」が大成功。映画と実演の両方を見ることができる日劇はその名をとどろかせました。 ただ、経営は安定せず、一時閉館や日活への貸し出しを経て1935年、小林一三率いる東宝が吸収合併し、直営に乗り出します。 日劇の跡地に建っている有楽町マリオン(画像:(C)Google) ここから日劇の輝きの歴史が始まります。 東宝は映画の二本立てにアトラクションを添えて、50銭均一の低料金制に踏み切ります。これは当時として破格。アトラクションの主体には、新たに募集された「日劇ダンシングチーム」が据えられました。そんなこともあり、日劇は大いににぎわいます。 戦前期の日劇で忘れてはならないのが、李香蘭の来日公演です。時は1941年2月11日。紀元節にあわせて「日満親善歌の使節来たる」という触れ込みで来日した李香蘭の公演「歌ふ李香蘭」を見ようと、東京中の人が押し寄せます。 当初、午前9時半の開演を予定していた日劇ですが、早朝には既に行列ができ、巨大な劇場を7回り半もしていたといいます。 午前8時頃になると殺到する群衆で大混乱になり、丸の内警察署からは警察官が50人も出動。それでも混乱は収まらず、ついには公演を中止にした上で、丸の内警察署長がバルコニーから群衆を説得し、解散させました。それでも騒ぎを知って逆に駆けつける人がいて、大混乱は夜まで続きました。 終戦後の毎日1万人以上が詰めかけた その後、太平洋戦争が始まると、風船爆弾の製造工場になった日劇ですが、終戦とともにすぐに劇場として復活します。 戦後最初のショーは、1945年11月22日に行われた轟夕起子・灰田勝彦らが出演する「ハイライト」でした。劇場内は風船爆弾の工場だったこともあり、座席が取り外されていたため、粗末な椅子や丸太を並べて、なんとか客が入る状態にしました。それでも、満員御礼の札が出るのは当たり前。客席の扉は人が多すぎて閉まらなかったといいます。 服部良一「僕の音楽人生」(コロムビア編)。右の女性が笠置シヅ子(画像:日本コロムビア) ここで観客を沸かせていたのは、ブギの女王・笠置シヅ子でした。戦後の開放感とともに全国津々浦々に広がった彼女の歌声を聞こうと、日劇には全国から観客が押し寄せました。その観客数たるや、1週間の公演に毎日1万人以上という当時としては驚くべき数字だったのです。 「日劇ウエスタンカーニバル」の熱狂「日劇ウエスタンカーニバル」の熱狂 その後、越路吹雪やトニー谷などさまざまなスターが登場した日劇ですが、その名がさらにとどろいたのは、1958年2月8日から始まった「日劇ウエスタンカーニバル」です。 この催しはナベプロの名で知られる渡辺プロダクションの渡辺美佐副社長(現・名誉会長)の発案で銀座にあったジャズ喫茶・銀座ACBに出演していた平尾昌晃・ミッキー・カーチス・山下敬二郎ら、当時盛り上がり始めていたロカビリーをメインに据えて企画されたものでした。 この企画は大当たり。カーニバル当日、朝4時頃には丸の内警察署から日劇に電話が入り「若い女性がいっぱい渦巻いていて、交通の邪魔だから早く開けてやってくれ」といわれたといいます(『週刊平凡』1980年3月27日号)。 当時はまだ、現在のように日本武道館(千代田区北の丸公園)や東京ドーム(文京区後楽)のような大規模なコンサート会場のない時代。それまでの観客と違い、熱狂してステージに絶叫する若者たちの姿は時代の象徴ともなりました。 その後「日劇ウエスタンカーニバル」は1977年まで56回にわたって公演が行われ、ロカビリーに続くグループサウンズのブームを巻き起こす拠点となりました。 日劇の跡地に建っている有楽町マリオン(画像:(C)Google) こうして娯楽の伝統として多くの人でにぎわった日劇ですが、老朽化により1981年2月をもって閉館。跡地は隣接する朝日新聞東京本社などと一体で再開発が実施され、有楽町マリオンとして生まれ変わりました。 ちなみに『ゴジラ』の第1作である1954年版で日劇は破壊されましたが、1984年版で有楽町マリオンは壁を壊されただけで難を逃れています。
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