渋谷はかつてどのような街で、今後どのように変化していくのか――年始にじっくり考える
駅前再開発でにぎわう渋谷。そんな渋谷は今後どのように変化していくのでしょうか。まち探訪家の鳴海侑さんが解説します。きっかけは副都心線の開業 2019年は次々とビルが開業し、話題が多かった渋谷。1月3日(金)には新しい銀座線渋谷駅ができ、西口には新しいデッキを作るための土台が作られています。 今回はそんな渋谷について「いまなにが起きているのか」「昔はどうだったのか」を紹介したいと思います。 渋谷といえばスクランブル交差点(画像:写真AC) 渋谷といえばスクランブル交差点、センター街を代表する若者文化と消費文化のまち。しかし、ここ2年で東側に渋谷ストリーム(渋谷区渋谷3)、渋谷スクランブルスクエア(同区渋谷2)と次々とビルが建ち、銀座線も東側に駅が移設されるなど、少し今までと違った動きが出てきました。 渋谷スクランブルスクエア東棟と渋谷ストリームはオフィスと商業施設が組み合わせられた複合高層ビルで、それぞれ役割が違います。 まず渋谷スクランブルスクエア東棟は高さ約230mと高く、東急百貨店のノウハウを入れた「+Q(プラスク)」など商業施設に力を入れていますし、最上階には開放感あふれる展望台「SHIBUYA SKY(渋谷スカイ)」があります。渋谷のあたらしいシンボルとしての要素がかなり強いビルです。 双方共通の「きっかけ」と「コンセプト」 一方で渋谷ストリームはGoogle日本法人の本社が入ったのをはじめ、オフィスビルとしての要素がかなり強く、店もオフィスワーカー向けの飲食店が中心です。 渋谷ストリームの外観(画像:写真AC) 双方に共通するのは、きっかけとコンセプトです。まずきっかけとしては地下鉄副都心線開業が挙げられます。副都心線が東急東横線と接続され、相互直通運転をはじめると、東横線がいままで走っていた空間が空いたのです。 そこで東横線の跡地を活用した空間として、広い土地があった渋谷駅周辺を再開発し、2棟の高層ビルが建ちました。 渋谷が若者の街になったのは80年代後半から渋谷が若者の街になったのは80年代後半から そしてコンセプトとしては、オフィスワーカー向けに作られています。先ほど紹介したようにオフィスがあるだけでなく、飲食店もオフィスワーカー向け飲食店を中心とした渋谷ストリームに対し、渋谷スクランブルスクエア東棟は一見すると渋谷の玄関口のようなビルです。 しかし47階建てビルの半分以上、17階から45階まではオフィスフロア。フロアあたりの最大面積も2900平方メートルと大きく、総賃貸面積は7万3000平方メートルと渋谷最大級のオフィス面積です。 渋谷スクランブルスクエア東棟と、そのの最上階に位置する展望台「SHIBUYA SKY」(画像:写真AC) ふたつのビルに入るオフィスの業態も傾向があります。渋谷の場合はIT企業の比率が高いのです。元々2000年頃まで「ビットバレー」と呼ばれ、新興のIT企業が集まっていた渋谷。しかしその後は、規模を拡大した際に必要な広いオフィスが不足し、六本木をはじめとした他地域に移転する企業が目立ちました。そこで渋谷の再開発ではオフィス建設が重視され、渋谷ストリームや渋谷スクランブルスクエア東棟が生まれたのです。 こうしたビルが華々しく登場していることは、今後の渋谷に変化が生まれる予感があります。今後の渋谷は若者文化の街からITを中心としたオフィス中心のまちに変わっていくのではないでしょうか。 ところで、渋谷が若者の街と言われたのはいつ頃のことかわかる人はいらっしゃるでしょうか。実は若者の街として本格的に認知されてきたのは1980年代後半のことで、特に1970年頃に渋谷と原宿の間に文化屋雑貨店や渋谷パルコが生まれたあと、しばらくたってからようやく若者の街になりました。 渋谷駅の北にパルコだけではなくさまざまな商業施設ができ、人々がウインドーショッピングを楽しむようになったことでようやく渋谷は若者の街として知られます。そしてセンター街の隆盛も1990年頃のこと、109が若者向けファッションで栄えるのは、1990年代半ばのことです。その前は新宿や原宿の方が若者のまちでした。 「百軒店」とは何か「百軒店」とは何か もちろん若者の多い時代でしたので、渋谷にも若者がいなかったわけではありませんが、昔の若者は公園通りやセンター街ではなく、道玄坂の「百軒店」を目指していました。 この「百軒店」は「ひゃっけんだな」と呼ばれることが多く、元々は関東大震災の頃に箱根土地(のちにコクドとして西武グループの中枢企業となる)が購入した宅地用の土地でした。 しかし、1923(大正12)年に関東大震災が発生したことで、箱根土地はこのエリアに下町の店を誘致します。宅地ではなく、名店街のようなものを作ろうとしたのです。そのもくろみは震災復興の進展により下町に誘致した店が戻っていくことで崩れてしまうのですが、跡地にはカフェやジャズ喫茶ができました。その後第2次世界大戦をはさんで1960年代まではこうした店を目指して若者がやってきたといいます。 往年の「百軒店」の香りを残す「名曲喫茶ライオン」付近の様子(画像:(C)Google) 1960年頃に百軒店にあったジャズ喫茶の話を読むと、客は1日中居座って昼ご飯だけ少し出て行って帰ってきたそうです。いまならば間違いなく店に嫌がられるでしょうし、下手すれば追い出されるようなことをしているように見えますが、当時はそれが許されるくらいにおおらかでのんびりしていたということでしょうか。当時の雰囲気を伝える店として、いまもその頃から愛されていたカレー屋さんや中華料理屋さんがあるといいます。 そんな百軒店のあたりはいまではすっかり飲み屋になり、様相を一変させていますが、1970年代から1980年代末にかけてミニシアターや公園通りやセンター街に移動していった若者たちが近年また百軒店近くに戻ってきています。その理由がライブハウスの存在です。 百軒店の北西には1991(平成3)年にON AIRがオープン(2013年からTSUTAYA O-EAST)。以後ライブハウスが増えていきます。ライブのある日は平日でも夕方に通りかかれば、多くの若者をみかけるのがこのエリアです。 オフィスの街に変貌後、渋谷はどうなるのか こうした若者の街以外の渋谷の話は普段あまり知られることはありません。しかし、今後オフィスの街に変貌していく渋谷において、若者の街以外の要素、若者の街として知られる前を知っておくのは結構面白く、大切なことではないかと筆者は思います。 ライブハウス「TSUTAYA O-EAST」付近の様子(画像:(C)Google) いま変化の過渡期を迎える渋谷。いままでとは違った見方でまちを捉えると、渋谷の未来が見えてくるかもしれません。
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