歩いて感じる「正岡子規の世界」 鶯谷駅から徒歩数分の文学旅、あなたもいかが?
JR鶯谷駅から歩いて5分の場所にある、俳人・正岡子規がかつて住んでいた「子規庵」。同庵について、フリーライターの下関マグロさんが解説します。なぜこの駅の名前が鶯谷になったのか 山手線の駅のなかで、もっとも乗降客が少ない駅をご存じでしょうか。それは鶯谷駅です。しかし、筆者(下関マグロ)はぜひ鶯谷駅で下車してほしいと思っています。 みなさんは、鶯谷駅というとどのようなイメージがありますか。駅前からラブホテルが建ち並んでいる街という感じでしょうか。かつては、出稼ぎや集団就職の人たちが泊まる旅館が軒を連ねていたそうなのですが、時代とともにラブホテル街に変わったようです。 実は「鶯谷」という行政上の町名はありません。では、なぜこの駅の名前が鶯谷になったのでしょうか。 諸説ありますが、そのひとつは駅の西側にある寛永寺(台東区上野桜木)にまつわるものです。寛永寺は江戸時代、住職として京都から皇族が代々出張してきていたのですが、その中のひとりが「江戸の鶯はなまっている」と言い、京都から鶯を運ばせて鶯を一帯に放したので、鶯の名所になったそうです。もっともその場所は、駅の場所より谷中方面だったとか。 鶯谷駅があるのは台東区根岸1丁目。ラブホテル街を抜けて、根岸2丁目に「子規庵」があります。 東京都の指定史跡になっている「子規庵」(画像:下関マグロ) 子規庵は明治時代に活躍した俳人、歌人、随筆家の正岡子規がかつて住んでいた住宅で、現在は一般公開されています。子規は愛媛県松山市で1867(慶応3)年に生まれました。その後上京し、東大予備門に入学します。同級生には夏目漱石がいました。 子規は27歳の1894(明治27)年、子規庵のある根岸に住み始めます。またふるさとの松山市から母・八重と妹・律を呼び寄せ、ここを彼の文芸活動の拠点にしていったのです。ここで句会や歌会が開かれ、句会には夏目漱石や森鴎外、歌会には伊藤左千夫、長塚節が参加しています。 近隣には子規の句が貼られた住宅近隣には子規の句が貼られた住宅 肺結核を患っていた子規は1902(明治35)年に亡くなりますが、その後も母、妹がこの家に住み続けます。関東大震災の被害はかろうじてまぬがれますが、第二次世界大戦の空襲で焼けてしまいます。幸い土蔵は無事で、子規の遺品は残ります。そして戦後再現されて、現在に至ります。 子規庵の入庵料は500円で、子規が住んだ住宅や庭を見学することができます。中学生以下は無料です。 子規庵の見学を終え、外へ出ても、子規の世界は根岸の街に広がっています。それは、いきなり隣の住宅から始まっています。 子規庵の隣は一般の住宅なのですが、そこに子規の句が貼られ解説もついています。ちなみに子規の隣の子に関する俳句です。そのほかにも根岸の町のあちらこちらに俳句とその解説が貼られており、歩きながら子規の世界を感じられます。 根岸の街のあちらこちらに貼られている子規の句とその解説(画像:下関マグロ) かつて、夏目漱石や森鴎外が歩いた道なのだと思うと、不思議な気分になります。ただし俳句とその解説は静かに鑑賞しましょう。 子規庵から日暮里方向へ歩くと羽二重団子(荒川区東日暮里)という老舗の団子屋さんがあります。きめがこまかく羽二重のようだとたとえられたのが店名の由来です。夏目漱石の『吾輩は猫である』や正岡子規の作品にもこのお店が登場します。テイクアウトはもちろん、店内でいただくこともできます。 さらに足を延ばせば谷中銀座商店街など、谷根千もすぐ。ぜひ、みなさんも鶯谷駅で下車してお散歩してみませんか。
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