ぶっちゃけ地味な板橋区「志村坂上」 でも実は古道・古墳・地形を一度に楽しめる素敵なエリアだった
中山道の一里塚が両脇に残ってる志村「古道」と「古社」と「古城祉」のトリオが好きな荻窪圭です。 「三古」そろい踏み。鎌倉街道と金王(こんのう)八幡宮と渋谷城祉とか、所澤道(ところざわみち)と石神井氷川神社と石神井城祉とか、岩槻街道と平塚神社と平塚城祉(平塚城がどこにあったかはまだ確定してませんが)とか。そんな楽しい場所のひとつが板橋区の志村。日本橋から出た中山(なかせん)道は北に向かい、荒川沿いの低地へと急な崖を下り、川を渡ったら埼玉県です。その崖のあたりが志村となります。崖がポイント。 最寄り駅は都営三田線の志村坂上。おすすめはA1かA2出口です。そこを出ると中山道の志村一里塚が! 江戸時代の一里塚がそのまんま残っているのです。自動車がびゅんびゅん走る片側2~3車線の幹線道路沿いに江戸時代からの塚が残っているというギャップがたまりません。 一里塚はたいてい道の両脇に作られましたが、ここがすごいのはそれがふたつとも当時のままの位置に残っていること。現在の国道17号は江戸時代の中山道より大幅に拡幅されてますが、もともと街道から少し離れた位置に一里塚があったおかげで、当時のままの位置にあるのですね。ひそかな「萌(も)えポイント」です。 急斜面の手前にある2基の道しるべ そこから、少し北へ向かい、志村坂上の交差点に出ましょう。 真っすぐ進む下り坂は近代の道路。崖を削って斜度を緩くしてるのがわかります。この交差点、よく見ると五叉路(ごさろ)になっていて、左斜め前に入るちょっと細い道がついてます。 実はこれが旧中山道。新しく真っすぐな道を作ったおかげで、急斜面をくねくね曲がりながら下る旧道が残ったのですね。新道と旧道が並ぶことで旧道の風情が際立ちます。 もちろんその旧道に入ります。その先は清水坂で急斜面を下るのですが、その手前に四角い石の石造物が2基あります。これが大事。 旧中山道からふじ大山道が分かれる分岐点にある江戸時代後期の庚申塔兼道しるべ。行き先がしっかり書いてあるのがわかる(画像:荻窪圭) これ、江戸時代の道しるべなんです。大きい方は正面に庚申(こうしん)塔とあり、左には「これより富士山大山道」、さらに練馬へ1里、柳沢へ4里、府中へ7里とあります。親切ですね。 柳沢は今の西東京市、西武新宿線の西武柳沢駅があります。この道を進むと、練馬、柳沢、府中を経由して富士山や大山へ向かえますってことですね。大山は大山不動や大山阿夫利神社がある山で、江戸時代は大山詣が流行していました。当時のニーズに合った行き先が描かれてます。 いざ「ふじ大山道」へいざ「ふじ大山道」へ 小さな方の道しるべは正面に大山道、ねりま・川越みち」と書かれてます。この道は途中で川越街道と交差しますから、川越へもつながっていました。 この道は通称「ふじ大山道」と呼ばれてます。今の「城山通り」の旧道に当たります。中山道から分かれてこちらの道を行きましょう。 住宅街の生活道ですが、緩やかにカーブしたやさしい道デス。少し歩くと右手に地蔵堂。その先で丁字路となり、道はいったん終了。新しく城山通りができたことで、旧道が分断されてしまったのですね。 丁字路を左に曲がり、城山通りを右に、ファミリーレストランがある一角を過ぎたら右に入って、丁字路を左へ。言葉にするとややこしいのですが、要するにちょっと迂回(うかい)する感じです。 旧道(ふじ大山道)に戻ったら、道なりに西へ進むと右手に熊野神社が現れます。 志村城祉であり古墳でもあった熊野神社 ここが目的地。志村熊野神社にして、中世の志村城祉です。 小学校と幼稚園にはさまれた参道の入り口に「志村城祉」の碑があり、1456(康正2)年に千葉氏の千葉隠岐守信胤が入城したと書いてあります。「なぜ東京なのに千葉?」と言うと、争いに敗れた千葉氏本家の千葉実胤(さねたね)・自胤(よりたね)兄弟が武蔵国へ逃れ、赤塚城と石浜城に入ったからですね。志村城はその一族の信胤がいたと伝わってます。 そこに城館を築いたのは千葉氏ではなく、志村氏。熊野神社も1042(長久3)年に志村将監が勧請(かんじょう)したと伝わっており、その頃のことでしょう。平安~鎌倉時代は熊野信仰や熊野詣でが人気で、東京にはほかにもその頃創建という熊野神社がいくつもありますから、ここがそのくらい古くても不思議はありません。実に長い歴史を持つ神社なのです。 古い証拠として、熊野神社では中世の板碑も見つかってます。社殿の手前右手奥にそれが無造作に建てられています。 熊野神社境内に無造作に残っている中世の板碑。解説もないので見逃しそう(画像:荻窪圭) 中央の大きなものは1526(大永6)年。志村城は1524年に攻められて落城したといいますから、その2年後ですね。 左右の折れた板碑はもっと古く、明応(1492から1501年)と永正(1504から1521年)と読めます。志村城に千葉氏が在城し、関東は戦乱の真っただ中にあった頃ですね。ここが古くからの土地だったという物的証拠です(その割に、何の解説板もないのが残念)。 時間が止まっているような熊野神社時間が止まっているような熊野神社 ここが城館だった物的証拠は発掘であきらかにされてますが、江戸時代の紀行文「江戸近郊道しるべ」には「社の西の方に堀切の跡あり」と書いてあります。江戸時代は志村城があったときの空堀跡が残ってたのですね。 今はどうなのかと社殿の左手に草を分け入って入ってみると、確かにそれっぽい微妙なへこみを発見。これかも。しかもこの社殿は古墳の上に作られているといいます。 つまりここは、今は住宅街の真ん中にぽつんと残る古い神社にすぎないのですが、古墳時代、平安時代、中世と長い歴史が折り重なった場所だったのです。そのせいか境内は森に囲まれてここだけ時間が止まっているような静寂感があります。 熊野神社(志村城祉)からふじ大山道を西へ向かうといきなり急坂。このときは数日前に降った雪が残っており凍結していてこわかった(画像:荻窪圭) せっかくですから社殿の裏手に回って見ましょう。春になる前であれば草も少なく葉も落ちているので木々の隙間から荒川方面の風景を楽しめるかと思います。城を造るのにふさわしい眺望です(敵が遠くからやってきてもすぐわかりますから)。 古道・古社・古墳・城祉・地形を一度に楽しめる志村 熊野神社を出たらその地形を味わいましょう。 ふじ大山道を右折。神社の隣にある小学校もかつては志村城の一部でした。道は小学校の正門あたりからぐぐぐっと下って谷に降りていき、城館は台地の端っこに作られたのだなってことがよくわかります。 北と東と南は険しい斜面だったのですから天然の要害だったことがわかります。攻めるなら中山道側から、なので東にも空堀が掘られていました(今は名残ありませんが)。 坂を下ったら、右手に崖を見ながらぐるっと回るのがおすすめ。崖上に大きなマンションがありますがそこも城の一部。下から見上げながら、その立地を味わいましょう。 崖下から見た志村城があった台地の端。今は大きなマンションが建っているが、これを見るだけでも高低差が実感できる(画像:荻窪圭) 崖下に沿ってぐるっと歩くと、熊野神社北側の崖下に城山公園。そこからは都営三田線の志村三丁目駅はすぐ(実はこっちの方が熊野神社の最寄り駅です)。 ですが、個人的には崖下を、旧中山道の清水坂下まで歩き、急坂を上って志村坂上駅へ戻るのがおすすめ。その方がより地形を味わえるからです。 ぶっちゃけ、特に印象的な物語や合戦があったわけでもない地味なエリアではあるので万人向けではありませんが、古道・古社・古墳・城祉・地形を一度に楽しめるという好きな人にはたまらない場所なので、興味を持った方はぜひ。
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