上野風月堂でも!? 様々なグルメに活用されていた不忍池の蓮
東京の蓮の名所といえば、上野の不忍池(しのばずのいけ)の蓮。現在ではもっぱら鑑賞するだけですが、戦前は様々な形で食のシーンに活用されていました。東京の食卓を彩った不忍池の蓮について、食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。食用として売られていた不忍池の蓮根不忍池の蓮(画像:近代食文化研究会) 1875(明治8)年9月15日の郵便報知新聞に、「不忍池の蓮 衰耗(すいもう)の理由」という記事が載りました。 今年の不忍池の蓮の成長が悪く、花の咲きも悪い。その原因は去年から蓮根を掘らなくなったため。定期的に蓮根を除去せずに、古い根を残していると蓮は衰えていく、というのです。 以前はレンコン を掘って売り、売上の一部を池の中央にある弁天堂におさめていました。つまり不忍池のレンコンは、食用として売られていたのです。 1883(明治16)年には、蓮の衰退問題は解決したようです。その年の5月15日の郵便報知新聞は、今年はレンコンを収穫して売り、上野公園の清掃費用にあてると報道しています。 その翌々年、そのころ店の正面が不忍池の方向を向いていた酒悦が、福神漬を販売します。 不忍池の弁天堂が祀る、七福神の弁天に名前をあやかった福神漬。その七種の野菜の中には、レンコンもあります。 福神漬(画像:photo AC) 発売当初の福神漬に入っていたレンコンは、ひょっとすると不忍池産のレンコンだったのかもしれません。 お盆の蓮飯 “私の子供の時分には、お盆になると、上野の風月のような上等な菓子屋でも、蓮の飯というのを売った。大きな蓮の葉へ白いコワ飯を包んだだけのものだったが、 ハスの匂の移り香があって、うまかったのを覚えている。”(小島政二郎『第3食いしん坊』1967 年刊) 上野風月堂(画像:近代食文化研究会) 1894年(明治27)年生まれの作家、小島政二郎の思い出です。その頃の東京では、お盆になると蓮の葉に包んだおこわを食べるという習慣がありました。 蓮の葉(画像:近代食文化研究会) この習慣はお中元と関係があります。お中元といえば夏の贈り物ですが、かつてのお中元といえば、この蓮飯をプレゼントすることだったようです。 “十五日、今日を中元と云。国俗蓮葉飯を製して、来客に饗し、親戚にをくる” 貝原益軒(かいばらえきけん)の『日本歳時記』(1688年刊)における中元の説明です。 江戸時代の川柳に“こわめしの 葉に弁天は 取巻かれ”という一首があります。 上野の不忍池の真ん中には弁天様を祀った弁天堂がありますが、不忍池の蓮に包まれた弁天堂を、蓮の葉に包まれたおこわに例えたものです。 不忍池の蓮の葉も、おそらくは蓮飯に利用されていたのでしょう。 野菜として食べられていた蓮の若葉野菜として食べられていた蓮の若葉 くるくるっと巻かれた、黄緑色の蓮の若葉は、野菜として食べることができます。古くは江戸時代初期の料理書、『料理物語』に蓮の若葉のレシピが登場します。 蓮の若葉(画像:近代食文化研究会) 不忍池の蓮の若葉も、明治時代には食用として販売されていました。 “私の子供の頃、夏になると、不忍の池の蓮の葉を取って刻んで、塩で揉んで、サラリと乾 いたのをマゲ物に入れて売っていたことを思い出した。(中略 )初めて巻き葉の利用法を知って、私は自分の子供の頃を懐かしく思い出した。” (小島政二郎『第3食いしん坊』1967 年刊) この塩味の乾燥若葉、ふりかけとしてご飯にかけて食べたそうです。 蓮飯には、先に述べた蓮の葉におこわを包んだものと、蓮の若葉をご飯に混ぜたものの二種類がありました。 江戸時代、後者の蓮の若葉の蓮飯で有名だったのが、不忍池の西にあった蓮寿亭という店でした。 ラブホテルの蓮飯 江戸時代に蓮飯で有名だったのは、蓮寿亭だけではありません。不忍池のまわりに多く存在した出会茶屋も、蓮飯が名物でした。 出会茶屋とは、現在でいうところのラブホテルです。 そのせいか、蓮飯が登場する江戸時代の川柳には、色っぽいシチュエーションを描いたものがありました。渡辺信一郎の『江戸川柳飲食事典』(1996年刊)には、そのような色っぽい川柳がいくつか転載されています。 “根が好きで 蓮飯二人 喰いに行き” 根っから好きと「蓮根」をかけています。そして 「蓮飯二人 喰いに行き」は、出会茶屋に二人で出かけることを暗示しているのです。 蓮の実と蓮酒 “不忍の池で思い出したが、秋になると、舟が出て、蓮の実を折ッペシょって来ては一ト茎(ひとくき)一銭で売ったものだ。一ト茎に穴が七つぐらい明いている。そこへ指を突っ込んで、ほじくると、白い実がピョコンと飛び出して来る。 ”(小島政二郎『第3食いしん坊』1967 年刊) 蓮の実(画像:photo AC) 中華料理のデザートに登場する蓮の実ですが、不忍池ではとりたてを生で食べさせました。 小島政二郎によると、シャキシャキした口当たりが美味しかったそうです。 詩人の大沼枕山(おおぬまちんざん)は、弁天堂のある中の島で、蓮の葉についだ酒を飲みながら、漢詩を揮毫(きごう)したそうです。(鶯亭金升(おうていきんしょう)『明治・大正・昭和東京の料理店番附案内集成』太平書屋編・1986年刊所収の「東京食通番付」より)。 蓮の葉を盃にした酒は、蓮の良い香りがしておいしかったそうです。 このように、かつての上野名物といえば、不忍池の蓮を利用した様々なグルメでした。 せっかくの伝統があるのですから、周辺の商店や飲食店におかれては、レンコンや蓮飯、若葉のふりかけや生の蓮の実や蓮酒などを、上野名物として復活させてみてはいかがでしょうか? 皇居のお堀の蓮も食用に 画家の鏑木清方(かぶらききよかた)によると、明治時代の皇居のお堀には、蓮が植えられていたそうです。(『鏑木清方随筆集』1987年刊所収の「外濠内濠」より) 篠田鉱造(しのだこうぞう)の『銀座百話』(2016年刊)によると、1882(明治15)年に数寄屋橋外堀のレンコンの入札があったそうです。明治時代の東京では、皇居のお堀の蓮も食べていたんですね。
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