戊辰戦争の残影――なぜ「上野の黒門」は南千住に移築されたのか?
2018年に話題を呼んだ大河ドラマ「西郷どん」ゆかりの地を、フリーライターの下関マグロさんが解説します。「西郷どん」ゆかりの地へ 2018年の4月某日、筆者は上野恩賜公園へ向かっていました。NHK大河ドラマ「西郷どん」(同年1月~12月放送)が人気だというので、ドラマにゆかりの地をまわるという記事を書くためです。 上野恩賜公園正面入口に立つ西郷隆盛像(画像:写真AC) 東京で西郷隆盛ゆかりの地といってすぐに思い浮かぶのがこの公園の像でしょう。公園の階段をのぼって、西郷さんの像のところへ行こうと思ったら、その手前に見慣れないものがありました。なんだろうと近づいてみると、かたわらに説明板があります。それはいきなりこんな文言で始まります。 「この壁泉は、かつてこの地にあった『黒門』の姿を表現しています」 えっと、いきなり知らない単語が出てきました。「壁泉」とはなんでしょう? スマートフォンで検索してみました。このように上から水が落ち、水の幕をつくるような人工的な滝のことを壁泉(へきせん)というのだそうです。 黒門が現存? 近づくと水が流れているのがわかりますが、遠目に見るとまさに黒門がそこにあるように見えます。説明書きには、黒門は寛永寺の「総門」だとのこと。総門とは敷地の一番外側にある大きな門です。 かつて黒門があった場所に設置されていた壁泉(画像:下関マグロ) 寛永寺は現在の上野恩賜公園ほぼ全域にわたっており、幕末の上野戦争でもっとも激しい戦闘が行われたのがこの黒門付近だそうです。主な戦いは銃撃戦。そのため黒門には、多くの銃弾の跡が残ったのだとか。そして、最後に驚くべきことが書かれていました。その黒門が1907(明治40)年に荒川区の円通寺(同区南千住)に移築され、現存しているのだそうです。 この日は西郷隆盛ゆかりの地をまわり、取材を終えましたが、どうしても現存する黒門を見たくて、後日、円通寺まで出かけてみました。 今も残る弾の跡が生々しい黒門今も残る弾の跡が生々しい黒門 円通寺は日比谷線「三ノ輪駅」から歩いて5分、国道4号線沿いにありました。円通寺は曹洞宗のお寺で、791(延暦10)年に平安時代初期の武将・坂上田村麻呂によって開かれたと言われています。とても歴史の古いお寺なんですね。 円通寺に移築された寛永寺の黒門。弾痕が生々しい(画像:下関マグロ) 境内に黒門がありました。そもそも、どうして寛永寺の黒門がここにあるのでしょうか? 黒門の脇に「荒川区指定 有形文化財・歴史資料」という説明板が建っていました。それによれば、埋葬されずにいた彰義隊士の遺体を火葬し、供養したのが円通寺の住職だったそうです。その縁で、黒門が円通寺に移築されたそうです。 ちなみに火葬した場所は、上野恩賜公園の西郷隆盛像の背中側にある彰義隊の墓あたりだとか。円通寺にも彰義隊士の墓があります。なぜ彰義隊のお墓がふたつあるのかと思っていたのですが、火葬された場所が上野公園で、埋葬されたのが円通寺だったのですね。 よく見ると、多くの弾痕が残っています。それにしても上野戦争時の黒門が、震災や戦災をまぬがれ、そのまま残っているというのが、驚きです。しかし、この円通寺には、さらに驚かされることがありました。 昭和を震撼させた吉展ちゃん事件 黒門の後方にお地蔵さまがいらっしゃいました。 円通寺境内にある「よしのぶ地蔵」(画像:下関マグロ) このお地蔵さまは「よしのぶ地蔵」だそうです。スマートフォンで調べてみると、円通寺が1963(昭和38)年に起きた「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の現場だったのです。この事件は、4歳の吉展(よしのぶ)ちゃんが誘拐された事件で、日本で初めて報道協定が結ばれました。マスコミは協定を結び、事件のことを発表しませんでした。 その後、公開捜査になって、テレビでは連日のように放送。誘拐犯からの電話が録音されていて、これが公開されたのを覚えています。犯人の話し方や声について専門家と呼ばれる人たちがさまざまな分析をしていました。 2年後に犯人が捕まります。犯人の自供により、吉展ちゃんは誘拐されてすぐに殺され、その遺体を遺棄したのが円通寺でした。「よしのぶ地蔵」は慰霊地蔵なのだそうです。思わず手を合わせました。
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