プロレス界の英雄「力道山」を思い、昭和の赤坂を歩く
伝説のプロレスラー・力道山をしのび、サンポマスターの下関マグロさんが赤坂周辺を歩きました。57年前の衝撃 1963(昭和38)年12月、朝刊を読んでいた母が「力道山が刺された」と教えてくれました。筆者が5歳ときのことです。 事件が起こった場所は、「ニューラテンクォーター」というナイトクラブ。力道山は当時とても有名なプロレスラーで、テレビ放送されていたプロレス番組ではいつもヒーローでした。ですから僕(下関マグロ。サンポマスター)はずいぶんと驚きました。 そして何日か後、再び朝刊を読んでいた母が「力道山が病院で亡くなった」と教えてくれたのです。あんなに強かった力道山も刃物にかなわなかったのかと悲しい気持ちになったのを覚えています。 今回インターネットなどで調べたら享年39歳だったそうで、そんなに若かったのかとちょっと驚きました。 地下一階にあったナイトクラブ というわけで今回は、現在の港区赤坂を歩きながら、力道山がいた頃の昭和30年代の雰囲気を感じてみます。 散歩をスタートさせるのは外堀通りです。最寄り駅は東京メトロの溜池山王駅、赤坂見附駅、赤坂駅などになります。 外堀通りに高くそびえるのが、「プルデンシャルタワー」(千代田区永田町)です。ここにはかつて、「ホテルニュージャパン」が建っていました。 プルデンシャルタワーの外観(画像:下関マグロ) ホテルニュージャパンの地下一階にあったのが「ニューラテンクォーター」というナイトクラブで、1963年12月に力道山が刺された場所です。 ニューラテンクォーターは、国内外の有名歌手やミュージシャンがショーを行うお店でした。店は広く、テーブルが300、フロアにはホステスや従業員も多くいました。 デヴィ夫人に関係するビルもデヴィ夫人に関係するビルも ホテルニュージャパンは、1982(昭和57)年2月8日未明に火災が発生。客の寝たばこが出火原因のようですが、33人も亡くなるという大惨事となりました。 当時のテレビのニュースで、拡声器を持って報道陣に説明をするちょうネクタイ姿の社長・横井英樹の姿を覚えています。これだけ多くの人が亡くなったのは、横井社長の利益を優先するあまり、スプリンクラーなどをつけなかったのが原因だったと言われています。 その後、建物は取り壊されないまま放置されており、上京した筆者はその様子を何度も目にしました。そんな状態が14年間続き、1996(平成8)年にやっと解体されました。 跡地を整備するはずの千代田生命保険は破綻。紆余(うよ)曲折あり、2002年にプルデンシャルタワーが完成しました。 外堀通りを1本入ったところに「コパカバーナビルディング」(港区赤坂3)があります。 「コパカバーナビルディング」の外観(画像:下関マグロ) ここにはかつてコパカバーナというナイトクラブがありました。インドネシアのスカルノ大統領(当時)がここで出会った女性と結婚。それが現在のデヴィ夫人です。 コパカバーナは高級キャバレーというような言われ方をしていて、普通のサラリーマンが気軽に行くような店ではなく、かなりの金額が必要だったようです。赤坂にはそういった高級なナイトクラブがいくつかあったようです。 力道山が建てた高級アパート力道山が建てた高級アパート 外堀通りから、円通寺坂を歩きます。 長く、まっすぐのびている円通寺坂。坂の上に坂の名前と同じ寺がある(画像:下関マグロ) 円通寺坂は赤坂4丁目と赤坂5丁目の間を東から西へのぼる坂で、坂を進むと道の両側にあった飲食店が住宅に変わっていきます。坂の下と上に千代田区が建てている真新しい坂の説明書きがありました。 長くまっすぐ続く坂の勾配は昔と変わらないのかもしれないと考えながら歩いていると、昭和30年代からさかのぼり、戦前の赤坂にまで思いをはせていました。 赤坂は軍隊の街でした。TBSテレビ(赤坂5)のあたりには近衛歩兵第3連隊がありました。軍隊もこの坂を通ったのだろうかと思いながら円通寺坂を登りきると、左側に坂の名前の由来になった円通寺があります。その先にある稲荷坂という少々急な坂へ向かう途中に「赤坂リキマンション」(赤坂7)が。 力道山はリキアパートという高級アパートを建てて、自らもそこに住んでいました。さらに高級マンションである赤坂リキマンションを建設したのですが、できあがったのは亡くなった後でした。 「R」の文字が印象的なレトロモダンな建物は、現在も現役のマンションとして稼働しているようです。 稲荷坂をくだると赤坂小学校(赤坂8)がありました。行きかう人を見ると、急に令和に引き戻された感じがします。結局、東京メトロ千代田線の赤坂駅まで歩くことにしました。
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