「天国で皆を笑わせて」東村山市民15人が志村けんさんに送った熱き「心の声」とは
死後、改めて感じる偉大さ イベントプロデューサーのテリー植田です。新型コロナウイルス感染による肺炎のためお亡くなりになった、東京都東村山市出身である志村けんさんの追悼文をここに記したいと思います。 コイケヤ「わさムーチョ発売記念&新キャラクター就任記念発表会」に出席した志村けんさん=2016年9月15日、東京都内(画像:時事) 私は東村山在住です。 訃報は、3月30日(月)朝のニュースで知りました。その日は、あまりのショックの大きさに動くことができませんでした。東村山中が泣いていたことでしょう。 新型コロナウイルス感染拡大の影響は私の仕事にも甚大な被害を及ぼし、私の4月の担当イベントはすべて中止となりました。この影響はいつまで続くのかーー。この原稿を書いている段階でも見通しはたっていません。 仕事を失ったショックと、東村山市民として志村けんさんの喪失感が同時にのしかかってきます。居ても立ってもいられず、報道陣であふれ返る東村山駅前の「志村けんの木」にお別れのあいさつに行きました。 今はテレビの追悼番組やネットニュースを見て、志村けんさんの偉大さを改めて感じる日々を過ごしています。 志村さんと言えば「東村山音頭」 初対面の人に「東村山に住んでいる」と言うと、たいてい「東村山1丁目なの?」と冗談で返される経験を東村山市民はしています。東村山の話をして、志村けんさんが話題にならないことはないのです。 志村けんさんと言えば、やはり「東村山音頭」です。 1976年9月に発売された「東村山音頭」(画像:(P)(C)Watanabe Music Publishing、東芝EMI)「東村山音頭」は元々、地元の農協で作られたご当地ソング。発売当時、私は奈良県桜井市と言う田舎に住んでいた小学生で、「8時だョ!全員集合」を見ていましたが、東村山が東京で実在する街とは知らず、志村けんさんが考えた「架空の街」だと思い込んでいました。 しかし、大人になってから東村山に長く住むようになりました。私の仕事であるイベントプロデューサーの原点は、「8時だョ!全員集合」の志村けんさんに行き当たります。 「笑ってもらってなんぼ」の精神「笑ってもらってなんぼ」の精神 私は小学2年生のとき、昼休みに友達とヒゲダンスをまねて遊んでいました。フェルトペンで黒く塗ったセロハンテープを、鼻の下に貼ってよく踊っていました。友達にあだ名を付けたり、給食で牛乳を飲むときに友達を笑わせたりしていました。 東京都東村山市の場所(画像:(C)Google) また、新聞部員として笑いのある芝居を企画しました。 「もしも新聞がなかったら」という設定の芝居で、指名手配されている殺人犯が家にやって来て大騒動になるのですが、新聞を読んでいたから指名手配犯だとすぐに気がつき、警察に通報できたと言う話でした。テレビをつけるとニュース番組では俵孝太郎風のニュースキャスターが出てきて、「こんばんは、俵紅茶郎です。殺人犯は逮捕されました」と、紅茶を飲んでギャグを言うのです。 この芝居は、バラエティー番組「ドリフ大爆笑」の「もしもシリーズ」をまねたものでした。小学生時代に人を笑わせるという、私にとって人生最大の楽しみを教えてくれたのはザ・ドリフターズであり、志村けんさんでした。 私が本職のイベントプロデューサーとして司会をしながら必ず笑いを入れるのも、夏にそうめん研究家のソーメン二郎という変なキャラクターで笑いをまぜてそうめん普及活動をしているのも、無意識のうちに志村けんさんの影響を受けているかもしれません。子どもの頃から「笑ってもらってなんぼ」という精神が培われ、そのまま大人になって仕事をしている感じです。 「ファミリー感」あふれる東村山 私は東京に来て25年、東村山に住んで15年、市内で5回引っ越ししています。東村山に住むまでは、家の近所にいきつけのBARや居酒屋なんてほとんどなかったのですが、東村山に住むようになってからはご近所付き合いがたくさん増えました。 東村山駅の外観(画像:(C)Google) 最初は、恩多町にある小山農園に入園して野菜の栽培をするようになり、余った野菜を同じマンションの人におすそ分けしたり、スナックのボーイさんや飲食店の料理人さんと仲良くなって家族付き合いをするようになったり、新宿歌舞伎町ゴールデン街で一緒になった隣の人が私と同じマンションの住人で、地元で飲みに行くようになったり、東村山市長を訪問して意見交換をさせてもらうようになったりしました。 東村山は「ファミリー感」をすごく感じる街なのです。それも日本人だけでなく東村山に在住するタイ人、ネパール人、中国人、ベトナム人など多国籍でコミュニケーションがある。このファミリー感のルーツになっているのは志村けんさんではないかってずっと思っています。 「母親同士が知り合いだった」「母親同士が知り合いだった」 この原稿を書くにあたって、少しでも多くの東村山市民の「心の声」を届けたいと思い、多くのコメントを募集しました。 ※ ※ ※ ●旬味酒処「も暖亭」マスター・野崎武夫さん 私が志村けんさんと顔が似ていたので、店でお客さまからリクエストをもらったら、おばあさんキャラのモノマネをやっていました。若い頃の赤坂での修業時代、店の仲居さんに呼ばれて客室に行ったら、そこには志村けんさんがいらっしゃいました。東村山出身の板前がいると仲居さんが言ってくれたようでした。志村けんさんに一杯ごちそうになったのは、最高の思い出です。私と志村さんの母親同士が農業つながりでご一緒していて、私と志村さんの兄弟が市役所勤務同士だったので話がはずみました。 ●旬味酒処「も暖亭」ママ・野崎真紀さん 私が主人に初めて会ったとき、主人の顔が志村けんさんにすごく似ていてびっくりしました。「志村けんさんの弟さんだよ」と冗談で言われて、しばらく信じていました。主人は、志村けんさんのおばあさんキャラのモノマネうまいんですよ。 右から「も暖亭」のマスター・野崎武夫さん、榎本豊さん(画像:テリー植田)●旬味酒処「も暖亭」・榎本豊さん 店に志村けんさんのおふたりのお兄さんが来ていて、いつか志村けんさんが来てくれないかなとずっと待っていましたが夢かなわず……小学生のとき、ヒゲダンスはまねしていました。本当に残念です。合掌。 「天国でも皆を笑顔にしているはず」「天国でも皆を笑顔にしているはず」●ネパール料理「ナンバガン」店主・アディカリ ネイルさん 志村けんさんのことは日本に来る前から知っていました。ネパール人にも大人気でした。たまたま東村山に住むことになって、志村けんさんとのご縁を感じていました。いつかお店に来てくれるとうれしいと思っていたので残念です。天国でも国境を越えて、皆を笑顔にしていると思います。安らかにお眠りください。 ネパール料理「ナンバガン」で人気メニューのバジルナンとエビカレー(画像:テリー植田)●ラッパー/料理人・バケラッタさん 小難しい肩書や説明は要りません。「バカ」な殿様、「変」なおじさんという存在だけで、子どもも大人も笑わせます。今も昔も変わらずに。複雑になって行く世の中に、こんなにシンプルでくだらない――。暗くならずに、皆で志村けんを見て笑いましょう。「アイーン」は地球を救います。たくさんの笑いの幸せをありがとうございます。あなたは俺のヒーローです。 ●BAR「ボージャングル」マスター・宮寺昭敬さん 東村山に生まれ育ちずっと東村山。今は小さなBARの店主です。修業時代は、志村けんさんの番組に出たことのある岸田正さんの下で働いていました。あまりにもショックで追悼番組も今は見られません……ご冥福をお祈りいたします。 ●会社員・イチカワさん 入院されていましたが、また「だいじょうぶだぁ」と戻ってきてくれると思っていたので残念ですし、悲しいです。子どもの頃は「変なおじさん」「バカ殿様」やPCエンジンのゲームなどで楽しませていただいた思い出ばかり。今は何かの縁で東村山市に住んでいて、趣味の食べ歩きの手土産には「餅萬」さんの「だいじょぶだァー饅頭(まんじゅう)」を持っていっています。ゴールデン街でテリー植田さんと知り合えて、仲良くなれたのも志村けんさんのおかげですね。安らかにお眠りください。 「タイでも皆大好き」「タイでも皆大好き」●タイ料理「メースィールアン」マスター・中 博之さん 40年以上前に東村山の産業祭に志村けんさんが来て、東村山音頭をやってくれたのが1番の思い出ですね。その時は絶頂期でしたから。本当に残念でならないです。 ●タイ料理「メースィールアン」ママ・中 チャンピムさん 日本に来る前から、志村けんさんを知ってるね。何やっても楽しい人ね。タイでも皆大好き。「バカ殿様」、皆見てる。私も大好きね。ワンちゃん好きで優しい人ね。東村山のお祭りにいつか来てくれないかなって思っていたのに、夢みたいで寂しいね。 久米川駅前のタイ料理店「メースィールアン」で1番人気のグリーンカレーチャーハン(画像:テリー植田)●スナック「サンセット」・千葉隆起さん 東村山の名を全国に知らせていただき、そして地元小学校の大先輩でもある志村けんさんが亡くなったことは本当に悔しいし、コロナが憎い。小さいときからテレビにくぎ付けになるほど大好きでした。今でも信じられません。本当に今まで笑いと感動をありがとうございました。お疲れさまでした、ゆっくり休んでください。 ●スナック「サンセット」・田中富士夫さん 「8時だョ!!全員集合」をはじめ、「志村動物園」など数多くのテレビで活躍され、本当にお疲れさまでした。まさか新型コロナウイルスになって亡くなられるとは思ってもいませんでした。悲しいですが、けんさんらしいです。お笑いでも最先端を行き、亡くなるときまで最先端の新型コロナウイルスなんて。天国に行かれても、また長さん(いかりや長介)とコンビを結成して、皆さんを楽しませてください。心からご冥福をお祈りします。 「東村山の恩人であり、私たち市民の誇り」「東村山の恩人であり、私たち市民の誇り」●小山農園・小山俊雄さん 志村けんさんの訃報を聞き、東村山は悲しみに沈んでいます。市内は、志村けんさんの面影がいっぱいです。これから毎年夏まつりで「東村山音頭」を踊る度に、明るく楽しい志村さんを思い出します。ありがとうございました。ご冥福を心よりお祈りします。うまく表現できません。周りは夜、久米川駅で飲みに行くのをやめました。小池都知事より、志村けんさんの訃報が効きました。 ●日本野生生物リサーチセンター代表/動物ライター・里中遊歩さん とあるイベントで初めて志村さんとお会いしたのは25年前。前夜、打ち合わせと称した東村山の居酒屋での飲み会で、さまざまなお話を屈託なく聞かせてくれた、そのまなざしの柔らかさが懐かしいです。最近、テレビの動物番組でロケにご一緒するかもしれないという話が出ていて、心待ちにしていたところによもやの訃報。再会できなかったこともそうだけど、そんなことよりその存在が永遠に失われてしまったことが本当に悔しい。どうぞ安らかに。合掌。 東村山市長の渡部尚さん(画像:東村山市)●東村山市長・渡部尚さん 志村さんが「東村山音頭」で大ブレークしたとき、私は中学生でした。修学旅行でお土産屋さんに「どこから来たの」と聞かれて「東村山」と答えると、「あ~あの志村けんの」と言われ、皆が自分の住んでいる街を知っていて誇らしかったことを思い出します。東村山の存在を全国に知らしめた志村さんは東村山の恩人であり、私たち市民の誇りです。志村けんさんのご冥福を心よりお祈りいたします。 ※ ※ ※ 私もずっと東村山に住んでいたいと思っています。東村山市民は、志村けんファミリーの一員なのです。合掌。
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