スマホ全盛時代には理解不能? 昔の電話、使えるまでに2年もかかっていた!
かつてはどの家庭や電話ボックスにもあった分厚い電話帳ですが、今や利用者が激減しています。そんな電話帳と電話の歴史について、フリーライターの金平奈津子さんが解説します。15年間で発行部数は99.7%減 NTT東日本(新宿区西新宿)とNTT西日本(大阪市)が発行する五十音順電話帳「ハローページ」が、約半年後の2021年10月以降に発行・配布する最終版をもって終了します。 2005(平成17)年には6500万部が発行されていたハローページは、携帯電話の普及によって、2020年には19万部(99.7%減)にまで落ち込みました。 また固定電話加入世帯も近年激減しているため、発行形態も変化しています。かつては全戸配布でしたが、2001年には希望制に転換。現在、配布を希望する世帯は加入世帯の3割程度にとどまっています。 もはや電話番号は「限られた人にしか教えない」という意識が世間に広がったことも影響しています。 一方、職業別電話用「タウンページ」はまだ需要があるようで、発行を継続するようです。かつてはタウンページの広告を見て業者を探すことは当たり前でしたが、いまだに需要があるとは驚きです。 かつて、そのページ数の多さから「電話帳のような分厚さ」という比喩表現も生まれましたが、その始まりは、とてもささやかなものでした。 高いのか安いのかわからない年間使用料高いのか安いのかわからない年間使用料 日本で始めて電話が使われたのは1877(明治10)年で、赤坂御所に設置されました。これは実験的なものでしたが、以降、官公庁では設置が進み、1890年には一般利用も始まります。 昭和レトロな黒電話(画像:写真AC) ところが、普及は思うように進みませんでした。 電話は当時の最先端機材です。そのようなもので話を済ませると無礼と思われるだけでなく、商店に雇われた御用聞きが失業するという危惧があったからです。さらに、全国で流行していたコレラが電話線を伝わって感染するというむちゃなうわさまで、当時は流れていたのです。 電話料金の年間使用料も40円と当時の役人の月給相当であり、加入するのは企業か限られた名士ばかりでした。 ただ、同時に料金も大ざっぱで、40円を払えば1年間かけ放題。役人の月給相当で「電話機代 + 1年間通話料無料」ですから、高いのか安いのかよくわからない部分もあります。 渋沢栄一の電話番号は「158番」 1890年の一般利用開始にともない、「東京横濱 電話加入者人名表」が作られます。これは日本初の電話帳で、加入しているのは東京で269件、横浜で60件のみでした。そのため、帳面ではなく紙1枚です。 多くは官公庁や企業ですが、なかには個人(有名人ばかり)も混じっていました。電話番号も極めて簡単で、1番は東京府庁、2番は逓信省電務局、3番は司法省と続きます。 個人の最初は、元徳島藩主で東京府知事の蜂須賀茂昭(もちあき)で36番。このほか158番はNHK大河ドラマ「青天を衝け」でおなじみの渋沢栄一、177番は大隈重信と歴史に名を残す有名人の名前が続きます。 渋沢栄一(画像:深谷市、日本経済新聞社) 当時の電話は交換手を呼び出して、番号を告げてつないでもらう方式だったので、イタズラ電話はできません。別に公開しても問題なかったのでしょう。 電話交換は24時間営業で、東京で女性9人、男性2人が雇用されました。当初、昼は女性、夜は男性という分担でしたが、次第に女性の交換手が増えて業務の大半を担うようになります。女性が増えたのは「男性の交換手が高圧的で無愛想だった」から。当時は現在のようなサービス概念も薄かったことがうかがえます。 市外通話で2時間待ちの過去も市外通話で2時間待ちの過去も こうして便利さが知られるようになると、電話は急速に普及し始めます。 申し込みに対するインフラ整備も追いつかず、電話をかけても遠距離にはすぐつながらない状況が長らく続きました。戦後になっても、 ・申し込みから開通まで約2年かかる ・市外通話で相手につながるまで2時間くらい待つ という難点がありました。 公衆電話(画像:写真AC) 前者は1978(昭和53)年3月にようやく解消し、申し込めばすぐに開通するようになりました。後者は1959年にクロスバ交換方式の市外中継交換機(昔の映画やドラマで見られたガチャガチャと音をたてながらつながる交換機)の実用が始まったことで急速に改善していきましたが、全国自動即時化の完了は1979年3月までかかりました。 店頭の数時間の手続きで携帯電話が使える現在、それを可能にしているインフラの有り難さを感じます。
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