実は伊豆諸島近海にもあった「サンゴ礁」 なぜ今まで忘れ去られていたのか?
伊豆諸島近海に大量のサンゴが眠っていることをご存じでしょうか。にもかかわらず、それらはなぜ陽の目を浴びなかったのでしょうか。離島ライターの大島とおるさんが解説します。発見は80年以上前 日本でサンゴの眠る海といえば、多くの人は沖縄辺りを思い浮かべるでしょう。しかし実は東京都にもあります。それは伊豆・小笠原諸島の近海です。 東京都の一部である島しょ部に多くのサンゴが生息していることは、約10年前に外国船による密漁が問題になったことで多少注目されましたが、その量が膨大であることはあまり知られていません。 記録によれば、伊豆諸島のサンゴが初めて注目されたのは1938(昭和13)年ごろ。現在の鳥島近海にサンゴ礁が発見されたのです。 サンゴ礁のイメージ 鳥島は江戸時代を通じて無人島でしたが、明治になるとアホウドリを捕獲するために多くの人が住み着きました。ところが1902(明治35)年に火山が噴火し、島民は全滅。しかしその後もアホウドリの捕獲は続けられ、多くの船が来航しました。 そんな鳥島でアホウドリに次ぐ宝(サンゴ礁)が発見されたということで、その年のうちにサンゴ漁に乗り出す人が相次ぎました。水揚げ総額は当時で40万円になったと言われています。 なかでも成田丸という船が採取したのが、高さ3尺(91cm)、幅4尺(121cm)のとてつもない巨大サンゴで、数万円はくだらなかったと記録されています。 ただ、このサンゴ景気は長く続きませんでした。太平洋戦争が起きたことで出漁は困難となり、自然と消滅してしまったのです。 八丈島近海にもあったサンゴ八丈島近海にもあったサンゴ まだ多くのサンゴが眠っていると考えられていた付近の海で、戦後になってから調査が行われました。昭和20年代に幾度か行われた調査では、鳥島近海だけでなく八丈島近海でも、大量のサンゴが眠っていることが明らかになりました。 伊豆諸島の鳥島(画像:海上保安庁) しかし現在に至るまで、八丈島がサンゴ漁で栄えたという話は聞きません。漁が発展しなかったのは、どういう事情があったのでしょうか。 当時の資料には第一の理由について、中国との国交が回復していないことが挙げられています。もともと中国ではサンゴは宝飾品として珍重されており、工芸技術も発展していました。そのため、戦前は採取したサンゴの輸出先となっていました。 しかし、戦後は国交が途絶した状態になって輸出が困難に。そのため採取しても買い手が少なく、採算が合わなくなってしまったのです。こうして前述の密漁事件が話題になるまで、伊豆諸島のサンゴはほぼ忘れられた存在となっていたのです。 トビウオとカツオの漁場 サンゴ漁で栄えなかった八丈島ですが、戦後になり、輸送手段が発達するにつれて、内地で消費される魚の漁場としての地位を確立していきます。 八丈島産の産物で、早くから内地で知られるようになったのがトビウオです。 八丈島では春になると産卵のために多くのトビウオが近海にやってきます。八丈島では「春とび」と呼ばれるトビウオも、今では水揚げされてすぐ豊洲市場(江東区豊洲)へと運ばれてきます。 鳥島と八丈島(矢印)の位置関係(画像:(C)Google) そんなトビウオ以上に東京の人たちが価値を感じるのは、カツオでしょう。春になると「初ガツオ」という文字がスーパーマーケットの店頭を飾るのは、江戸以来の伝統です。その初ガツオのなかでも、もっとも早くやってくるのが八丈島産です。 これらの魚は水揚げされた後、東海汽船(港区海岸)が運航する貨客船・さるびあ丸に積み込まれて、そのまま竹芝桟橋へと運ばれます。 総漁獲量の大半が島しょ海域から総漁獲量の大半が島しょ海域から 東京の漁業は、そのほとんどが島しょ部で水揚げされたもので成り立っています。 少し古いデータですが東京都産業労働局のサイトによれば、2007(平成19)年の東京都の総漁獲量は4981tで、このうち島しょ海域は4441tで、なんと89%を占めています。 東京の漁業といえば、東京湾で取れる魚を使った「江戸前」のイメージが先行しますが、それは本当にごくわずかなのです。 2007年、東京における海区別の漁獲量及び漁獲生産額の推移(画像:東京都産業労働局) そんな東京の漁業ですが、なかでももっとも珍しい産物はウミガメでしょう。ウミガメは絶滅危惧種に指定されていますが、八丈島など伊豆諸島のいくつかの島では、古くから食用に使う文化があり、現在も制限付きで捕獲が許可されています。 八丈島では、飲食店で「青海亀の煮込み」として、ショウガやアシタバと一緒に、みそ汁風に煮込んだものが提供されています。これも東京の知られざる食文化として、長く続いてほしいものです。
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