かつて「大人の遊園地」 東京・亀戸の街角に刻まれた当時の痕跡を探して【連載】東京色街探訪(4)
江東区亀戸にはかつて、「大人の遊園地」と呼ばれた色街がありました。その痕跡を紀行ライターのカベルナリア吉田さんが辿ります。駅前繁華街にはホルモン屋や餃子屋がチラホラ JR総武線の亀戸駅で降り、北口(アトレ口)に出ると、広いロータリーに都バスが並ぶ風景に迎えられました。行き交う人も車も多く、なかなかの都会ぶり。それもそのはずで、隣の錦糸町と合わせて亀戸は、東京に七つある副都心のひとつだそうです。 駅を背にして北へ延びる、アーケード付き歩道に挟まれたメインストリートは十三間通り。でもその1本脇に並行して延びる、ゴチャゴチャした横丁に、ホルモン屋や餃子屋がひしめいています。ホルモン屋には行列も。 メインストリート・十三間通り(画像:カベルナリア吉田) 十三間通りから延びる「亀戸中央通り商店街」も歩いてみます。青果店の店先に、カゴに盛った野菜がこれでもかと並び、買い物客でごった返して車が通るのもひと苦労。そんないかにも下町駅前商店街の風景のすき間にも、キャバクラの看板があります。さらにパブクラブ、DVD観賞などなど。 風景のすき間に、さりげなく風俗が混ざり合う街。でもこの街の「色街」の原点は、この界隈ではありません。 亀戸天神の裏、電柱に「遊園」の文字亀戸天神の裏、電柱に「遊園」の文字 十三間通りを北に抜け、猫が店番するお豆屋の角を左に曲がり、天神通り(蔵前橋通り)を進みます。途中に香取神社の参道があり「勝運商店街」の看板も。香取神社はスポーツの神として知られています。 天神通りをさらに進むと、年季の入ったせんべい屋があり、そば屋の看板に浮世絵風に描かれる松本幸四郎の肖像画に目が留まります。創業1920(大正9)年の古い「寫眞(しゃしん)館」もあり、情緒を感じながら、学問の神様・亀戸天神の参道入り口に着きます。参道のウナギ屋から、しょう油が焦げる芳ばしい香りが漂ってきます。 参道の突き当たりに天神の大鳥居がそびえ、一礼してくぐる人が多いのに気づきます。参拝を終えて戻るときも、鳥居の前で向きを変え、皆さん一礼。亀戸天神は亀戸の人たちの、心の拠り所なんだなあと感じます。 亀戸天神の大鳥居(画像:カベルナリア吉田) 天神通りをさらに進み、くずもち屋の前を過ぎて、横十間川に突き当たったら右折。川沿いに北へ進みます。時刻は14時すぎ、黄色い帽子をかぶった小学生の下校集団が、ワーッと歓声をあげて走ってきます。 長寿禅寺の北を右へ曲がり、天神様の裏手に出ます。道の入り口に2階建ての、長屋のようにつながった古い建物がありますが、その先は3~4階建てのマンションが連なっています。そしてマンションとマンションに挟まれて、駐車場がそこにも、あそこにも。 町々会館が立つ角を左へ曲がると、突き当たりに今度は天祖神社の鳥居が見えます。途中の電柱に「天神」「三丁目」などの文字。でも脇道に立つ1本に「遊園支」の3文字が。遊園って? かつて栄えた「大人の遊園地」かつて栄えた「大人の遊園地」 遊園地といっても、ジェットコースターで子どもが遊ぶアレではありません。亀戸にはかつて「遊園地」がありました。ただし大人向けの。 亀戸は古い歴史を誇る場所で、元々は海上の島でした。7世紀には藤原鎌足が香取神社を創建。この頃は「亀島」と呼ばれていましたが、島の湧き水「亀ヶ井」が有名になり「亀井戸村」になったそうです。 電柱に「遊園」の文字(画像:カベルナリア吉田) 亀戸天神は1661年(寛文元年)創建。学問の神様にして、江戸屈指の行楽地でもあり、 参道には茶屋や料理屋が並びました。それが天神裏にまで広がり、花街となりました。 そして1905(明治38)年には「亀戸遊園地」の名が付き、子どもではなく大人の男たちでにぎわいます。そこには揚弓処、料理屋旅館、銘酒屋などの名を掲げる私娼屋が並んでいました。当時はそんな、男たちがさまざまな欲望を満たす街を「遊園地」と呼んだのだそうです。 戦前までは玉の井(現・墨田区東向島)に並ぶ遊郭として栄えました。そして100軒近くの置屋が、200人以上の芸者を抱え、料亭に待合もある「三業地」となります。置屋、料亭、待合の「三業」は組合を作り、その事務所「見番」の建物が、今は町々会館として使われているそうです。 遊園地は戦争で壊滅しますが、戦後は「カフェー」が並ぶ「赤線」となって生き延びます。 周辺の工場労働者が主な客で「煙突の見える赤線」と呼ばれたそうです。 戦後はさらに温泉も湧き繁盛しましたが、バブル崩壊で芸者遊びをする人が減り、三業組合も解散します。元見番の町々会館以外に、かつての面影を残すものは見当たりません。 神社の玉垣に残る「遊園地」の残像神社の玉垣に残る「遊園地」の残像 住宅に挟まれた細い参道を、天祖神社に向かって進みます。途中に古い理髪店があり営業中。古い和風喫茶もありますが、こちらは閉じた様子。 天祖神社は推古天皇の時代の創建とされ、亀戸七福神の福禄寿を祀っています。そして神社を囲む玉垣にひとつずつ目を凝らすと「城東三業組合」の文字が。さらに案内マップ看板の裏に隠れて……おおっ、「遊園地」の玉垣もあります。 天祖神社の玉垣に「遊園地」の文字(画像:カベルナリア吉田) 緑が茂る境内で、鳥がギャーギャーと鳴き、まるでジャングルのよう。「副都心」にいることを、すっかり忘れてしまいました。 そして天神様ほど参拝者は多くないですが、ここでも深々とお辞儀して鳥居をくぐっていく人を、何人か見かけました。 天祖神社の北側を東西に、北十間川が流れています。川沿いの道をかつては都電が走り「柳島」電停で降りて、遊園地へ遊びに行く人も多かったそうです。今は往復4車線の道を車が途切れず走り、川を渡った向こうに大きなスーパーが立っています。 そんな道沿いにも「梅屋敷跡」説明版と石碑が立っています。江戸時代の頃、あたりは梅の名所だったそうです。今でも亀戸天神は、2月の梅が有名。花が咲くのが待ち遠しいですね。 福神橋交差点を右に曲がり、明治通りを南へ進むと、右手すぐに再び香取神社が。創建665(天智天皇4)年、亀戸天神よりもほぼ1000年古い神社です。 ここの玉垣には亀戸大根のレリーフと、境内には亀戸大根の碑が立っています。亀戸では江戸時代から大根が栽培され、亀戸大根は江戸東京野菜のひとつとして人気だそうです。 そして玉垣に「七丁目北部町會」「六丁目東部若睦會」と続く先に「亀戸三業組合」の文字も。とりあえず玉垣をひと通り見ながら、外角を一周します。その途中に――。 「ハクビシンにエサをやらないで」と貼り紙に書かれていて驚きました。この辺の出るのでしょうか、ハクビシン。 駅前に戻り、シメの一杯駅前に戻り、シメの一杯 香取神社の参道を経由して、亀戸駅方面に戻ります。夕方を待たず、参道の居酒屋に明かりがチラホラ。赤ちょうちんが灯る1軒に入ってみました。 ――キープのボトルがズラリと並ぶ店内で、イカつい顔の店主と会話は弾まず。下町も、駅から遠い居酒屋は、新参者にはなかなか手ごわい感じです。ここは無理せず1杯で出て、素直に駅前へ戻りました。 駅前は店がいっぱいあります。日が暮れて、ホルモン屋や餃子屋に長い行列。一見で気軽に入れるチェーン居酒屋も多いが、ここはチェーンじゃつまらない。ピンとくる店はないかウロウロ歩き回ります。 夜の亀戸はホルモン天国(画像:カベルナリア吉田) ピン! バー発見。ガラス越しに薄暗い店内が見えて、丸刈り頭に眼鏡のマスターがいるのが見えます。僕に似ている! 「こちらは初めてですか?」とグラスを拭きながら、さりげなく聞くマスター。 「お仕事ですか?」 「はい、三業地のあたりを歩いて」 と言ってもキョトンとした表情です。亀戸の「遊園地」が、芸者遊びをする男たちでにぎわったのも、遠い昔のことのようです。 それでもマスターが昭和のプロレスファンだとわかり「ドリー・ファンク・ジュニアのスピニング・トーホールドは本当に効くのか?」「ボボ・ブラジルのココバット」など、しばしプロレス話で盛り上がりました。 店を出ると、バーの近くにあるホルモン居酒屋の隣で「熟女」の2文字が輝いていました。
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