タワマン林立の佃島が「佃煮の聖地」になった知られざる歴史的背景
タワマン群と絵に描いたような下町の融合 東京でタワーマンション群が開発され始めたのは1990(平成2)年前後で、その先駆けとなったのは「大川端リバーシティ21」(中央区佃)です。 そんな同マンション群があるのが、佃島。佃島は対岸からみると近未来的ですが、その周辺にはいまだ懐かしい下町の風景が残っています。 タワーマンションが並ぶ佃島の風景と佃煮(画像:写真AC) 駄菓子屋があり、道路で子どもたちが遊んでいる――令和時代とは思えない、まるで絵に描いたような下町が銀座からすぐの場所にあるのですから驚きです。 そんな佃島の名物といえば、「佃煮」です。佃島には佃煮の名店がいくつか点在していますが、そもそもなぜ名物になったのでしょうか。 佃島の歴史とは 佃島の歴史は長く、徳川家康が江戸に入府の際、摂津国西成郡佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁民たちを招いたのが始まりです。 家康が彼らを招いた理由は、本能寺の変(1582年)で、堺から本拠地の岡崎城へ逃げ帰り、その途中で船がなくなり難儀していた家康を佃村の漁民たちが助けたからだと言われています。 ただ彼らは単なる漁民というだけでなく、ときには密使を務めたり、江戸城の食糧の確保を行ったりと、仕事はさまざまだったようです。 諸説ありますが、彼らは「全国での漁業権」が与えられており、また、大坂の陣(1614~1615年)では軍船も手配したと言われています。 中央区佃の住吉神社(画像:写真AC) このときに漁民と一緒に神主もやってきたため、佃島の氏神は住吉神社(中央区佃)となりました。その後、埋め立てによって土地が広がったため、現在、住吉神社の氏子は勝どきや豊海、晴海までにわたっています。 「佃煮の発祥は佃島」は間違い「佃煮の発祥は佃島」は間違い そんな佃島では白魚漁が盛んで、取れた白魚や高級魚などは江戸城に献上されていました。一方、小魚やあさりなどは自分たちの取り分に。 当時は現在のように食糧が豊富ではなかったため、多く取れたときには無駄なく保存食に加工するのが一般的でした。そうしたときに佃島の漁民たちが行っていたのが、塩や醤油で煮詰めておくという手法でした。 赤枠の内側が中央区佃(画像:(C)Google) 現在、佃煮というと「香ばしい醤油の香り」といったイメージがありますが、元々の佃煮はまったく異なるものでした。というのも、江戸時代前期の醤油は芳香が乏しいたまり醤油が主流で、現在のようなものは普及していなかったのです。 そのため、当時は醤油よりも塩で煮て保存性を高めたものが主流だったと考えられています。 また保存性を高めるために塩や醤油で煮詰めることは、佃島だけでなく、全国各地で行われていました。そのため、よく耳にする「佃煮の発祥は佃島」という言説は誤っています。 普及の背景にあった江戸の街 では、そうした食材がなぜ佃煮と呼ばれるようになったのでしょうか。 その理由を一言で言うと、「江戸の街で普及したから」です。 保存食として始まった佃島の佃煮は、江戸の人口が増えると広く売り出されるようになります。元々、商品にならない雑魚を使っているため、価格も安く、おまけに保存も利きます。 現在のように「お米は太るから量を減らして、おかずを多めに食べる」という考えは、当時の日本にはありませんでした。おかずは米をかき込むための副菜で、塩気の多い佃煮は最適だとされていたのです。 現在の佃煮(画像:写真AC) なにより暑い季節に腐敗を防ぐためには、塩気が強くする必要があります。現在でも昔ながらの製法を使った佃煮を販売している店もありますが、一般的な甘辛い佃煮に慣れていると、初めは少々驚きます。 これが江戸の人々の常食から名物となり、保存性も効くこともあり、全国に土産物として広まりました。 こうして名物として広まったことから、醤油や砂糖や塩を使って食材を煮込んだものが、一般的に佃煮と呼ばれるようになったわけです。 ここで気が付くのが、佃煮と「甘露煮」の違い。 実質、製法はほとんど差がありませんが扱っている食材の大きさで呼び名が変わっているそうで、材料が小さかったら佃煮、というのが一般的なようです。 今に残る「佃」の文字今に残る「佃」の文字 ちなみに佃島は、かつて存続の危機を迎えたことがあります。 1964(昭和39)年に住居表示を改正するにあたり、佃の文字が当用漢字に入っていないことを理由に廃止し、「津久多」や「住江」に変更する案が持ち上がったのです。 現在の佃の風景(画像:写真AC) 地元からは当然反発も強く、「歴史のある地名をなくすのはけしからん」と文化人も巻き込んだ反対運動が展開され、佃の地名はなんとか維持されたのでした。やはり「津久多」では、名前に締りがありません。 近くの勝どきも「勝鬨」の「鬨」が当用漢字でないために平仮名地名になっているわけですが、勝鬨橋を渡るたびに筆者は「やっぱり締りがないなぁ」と思ってしまいます。
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