陰鬱なコロナ禍を健全に生きたい人は今すぐ「贈り物」をしよう
日々の生活で贈り物をしたり、されたりすることは日常的です。そんな行為である「贈り物」とは一体どのような意味を持っているのでしょうか。フリーライターの鹿間羊市さんが解説します。年末年始は「贈り物」のシーズン クリスマスプレゼントにお年玉、お歳暮と、年末年始は「贈り物」のシーズンです。 クリスマスプレゼントのイメージ(画像:写真AC) 1年の終わりと始まりに際して大切な人やお世話になった人に何かを贈るという慣習は、お互いの関係性を確かめあい、その後まで付き合いを継続するうえでの「しるし」として機能します。儀礼的・形式的なものであっても、何かを贈り、それに返礼を行う、というやり取りが「つながり」を維持してくれるのです。 しかし、2020年は新型コロナウイルスの影響により、イルミネーションやイベントの中止、帰省の見送りなど、年末年始のお祝いムードに陰りが見られるかもしれません。クリスマスパーティーでのプレゼント交換や、親族が集まるなかでのお年玉など、贈り物の形式にも変化があると考えられます。 例年よりも何かを贈りあう機会が減る――というのは何だか寂しい感じがしますが、そもそもなぜ私たちは「贈る」ことによって関係を確かめあおうとするのでしょうか。 人文・思想で注目される「贈与」の概念「贈る」ことの意義なんて、あらためて考えてみる必要もなさそうですが、意外なことに人文・思想の分野では近年「贈与」という言葉がひとつのキーターム(最も重要な事柄)となっています。 「贈与」と言うと「贈与税」や「生前贈与」など、相続関連の話題を思い浮かべてしまいそうですが、意味としては単純に「贈ること」を指しており、難しく考える必要はありません。ざっくり言ってしまえば、「これからの世の中を生きていくには、贈り与えることが大切ですよ」という考え方が、ちょっとしたブームになっているわけです。 「そんなこと言われなくてもわかっているよ」という感じもするのですが、差し当たりなぜ「贈与」ということが注目されているのかを概説しておきたいと思います。 資本主義のイメージ(画像:写真AC)「贈与」がテーマとして取り上げられる時に、その根底には往々にして「資本主義を批判しよう」という意図があります。20世紀初頭、フランスの人類学者であるマルセル・モース(1872~1950年)という人が「何でもお金で買えちゃう社会ってゆがんでない? 売買じゃなくて贈与で成り立つ関係にも目を向けてみようよ」ということを言い始め、それから徐々に「フランス現代思想」と呼ばれる潮流のなかで「贈与」というテーマが取り上げられるようになりました。 日本においてもここ1、2年で「贈与論」を一般向けに解説する書籍がヒットしており、「何でもお金で買える社会」への危機感が広く浸透していることをうかがわせます。 「お金とモノの交換」は人間関係をドライに?「お金とモノの交換」は人間関係をドライに?「貨幣と商品・サービスの交換」をベースとする社会の何が問題かと言えば、「人をモノとして扱ってしまう」といことです。お金の絡まない場面で他人と出会ったときには、まず「この人はどんな人だろう」ということを知ろうとするでしょう。 しかし、お金とモノの交換関係においてはどうしても、相手の人格を見過ごしがちになります。コンビニ店員を目にするたび、「この人はどんな人だろう」などと考える人はそういないでしょう。 コンビニの接客イメージ(画像:写真AC) 人間が「貨幣と商品・サービスとの交換過程の一部」と見なされてしまうことは、資本主義批判の文脈において「物象化」や「疎外」といった言葉で表現され、人間の尊厳や人格を損なわせる原因と考えられてきました。 お客さんから人間扱いされなかったり、勤め先から「歯車」として扱われたりと、「交換関係」が間に入ることにより、人間は人格ではなく「機能」の面で判断される、というわけです。 このような資本主義の「冷たさ」に対し、贈与にもとづく「温度のある関係性」が処方箋として提示される、という流れとなっています。 贈られたら「お返し」をするのはどうしてか 日本語で「贈与」と言うと、「何かを一方的に与える」というようなニュアンスになってしまいますが、人文・思想の文脈で用いられる「贈与」はある種の「貸し借り」の関係を前提にしています。 贈与論のパイオニアであるマルセル・モースがまず着目したのは、「贈与を受けた側が返礼の義務を感じるのはどうしてか」という問題でした。 マルセル・モース『贈与論』(画像:岩波書店) モースの面白いところは、単純に「贈ることはこんなに素晴らしい」と主張するのではなく、「贈与のシステムにおいて人間を『お返しの行動』へと動かしているメカニズムは何か」というところから、そのメカニズムにもとづく継続した関係性のあり方を考えたからです。結論から言えば、この人間を動かすメカニズムの根本にモースが見いだしたのは「贈られたモノに宿る霊的な力」でした。 「霊的な力」と言うと途端にうさんくさく感じてしまうかもしれませんが、モースは別にスピリチュアルなことを言っているのではありません。 誰かから贈られたモノには、貨幣価値に還元できない「何か」が含まれています。例えば誕生日にもらったアクセサリーをなくしてしまって、後からまったく同じ商品を買い直しても、何かそこには「負い目」のようなものが残るはずです。 モノの売買は基本的に等価交換ですので、その関係に「余り」がありません。しかしこれが贈与となると、受け取った側は「贈られたモノの価値」に加え、「~してもらった」というプラスアルファの重みを感じることになります。 この「余り」の部分がモースの言う「霊的な力」であり、この力によって受け取った側は「お返し」へと駆り立てられる、というわけです。 お金とモノとの交換であれば、交換が済むと同時に関係は終了となりますが、贈与においては価値に還元できない「余り」が生じるために、単純に「お返しして終わり」ということにはなりません。その後も折に触れて「あの時に~してもらったから」というように、関係性は閉じることなく続いていくのです。 「理由のない特別扱い」が生む「余り」「理由のない特別扱い」が生む「余り」 贈与においてはなぜ、「余り」が生じるのでしょう。それは、相手が自分のことを「特別扱い」してくれることに理由を見いだせないからです。 例えプレゼントを贈りあう仲であっても、お互い「なんで付き合っているのか」を説明することは難しいのではないでしょうか。 人と人のコミュニケーションのイメージ(画像:写真AC) 相手が特別な存在なのは、多くの場合「なんとなく」です。なんとなく気が合うから、なんとなく一緒にいて落ち着くから、なんとなく腐れ縁を続けているから……贈与関係を支えているのは、このようになんともおぼつかない地盤であり、いつ崩れてしまってもおかしくないところで私たちは関係を維持していることになります。 贈与の面白いところは、こうした「無根拠な特別性」によって関係が成り立っているところでしょう。 「なぜか愛されている」という負い目 贈与を受け取る側が感じる「霊的な力 = 負い目」は、こうした「関係性の根拠のなさ」に由来しています。 贈与される側は「なぜ相手が自分によくしてくれるのか」について見当もつかないまま、相手の好意を受け取らなくてはなりません。負い目の正体は、「自分は不当にも愛されている」という感覚です。 サンタの靴下と子ども用ベッド(画像:写真AC) この感覚は、自分を「悪い子」だと思っている子が、サンタさんからのプレゼントを受け取ったときに抱くのと同じものです。 「サンタさんはいい子のところにしか来ない」と言われ、クリスマスが近づくたび自分の悪い行いを反すうし、「自分は悪い子だからサンタさんは来ないんだ」と思っていたところにプレゼントが贈られてくる――自分の存在が肯定された安心と、プレゼントをもらえた喜びのなか、「なぜ自分がプレゼントをもらえたのか」はわからない。「不当に受け取ってしまった」という負い目は、「借り」として積み重なり、自らも贈る側として「お返し」することを要求します。 贈与にもとづく関係性が閉じることなく続いていくのは、このように「根拠なく肯定された」ことへの負い目が根本にあるからだと考えられます。 贈る側に要求される勇気 プレゼントは贈られる側にとって喜ばしいものとなる半面、心の奥底で「借り」の感覚を生じさせるために、相手によっては「重み」となる可能性があります。 それゆえ自身が贈る側になった際には、「相手が贈与(=重み)を受け取ってくれるか」という問題に心を悩ませることになるでしょう。その点、結婚や出産といった儀礼的な場面や、クリスマスや誕生日といった記念日は、「贈与」にエクスキューズ(言いわけ)を与える働きがあります。 結婚のご祝儀を始め、「慣習上、贈与することが当たり前」という場面は、時に面倒に感じられることもありますが、見方を変えれば「相手が必ず贈り物を受け取ってくれる場面」であり、必然的に「貸し借り」にもとづく関係性を継続していく節目としての役割を果たすのです。 『世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学』(画像:NewsPicksパブリッシング) 一方、「何でもない日に贈与する」ことは、贈る側にとって一種の「賭け」の様相を呈します。 例えば5ちゃんねるの既婚男性版には「妻に愛してると言ってみるスレ」という歴史の長いスレッドがありますが、何の前触れもなく発する「愛してる」の言葉によって、妻との関係が良好になったという報告もある一方で、隠し事を疑われて修羅場に……といった残念な報告もあり、「前提なしの贈与」は相手に受け入れられるかどうかが未知数であることがよくわかります。 日頃の「ちょっとした贈与」を積み重ねる日頃の「ちょっとした贈与」を積み重ねる クリスマスのライトアップされた街並みや、普段よりも豪勢な食事は、自然なムードのなかで贈り物をするための「前提」として機能します。しかし2020年は人出の多い場所への外出がためらわれる状況であり、このような前提づくりが例年よりも難しくなっていると言えるでしょう。 当たり前にあるもののありがたみは、失ったときに理解できるものだと言いますが、コロナ禍において失われたさまざまなもののうちに、「贈与を当たり前にできる文脈」も位置づけられるのかもしれません。 贈与が簡単にできない状況は、「贈与にエクスキューズを与えてくれる儀礼や慣習のありがたみ」だけではなく、「日頃から贈与を積み重ねておくことの重要性」にも目を向けさせてくれます。 何でもない日においても、ちょっとした感謝や気遣いを重ねておくことで、前提なしの贈与も受け取られやすくなるはずです。先の「妻に愛してると言ってみるスレ」でも、受容と拒絶の分岐点はおそらく「日頃の行い」にあるのでしょう。 日頃の感謝のイメージ(画像:写真AC) 贈与は「存在を認知・承認しあう」関係をベースとしています。単純なあいさつでも、SNS上の小さなリアクションでも、「呼びかけ」と「応答」がミニマルな贈与関係を形成するのです。 こうした「何でもない呼応」を重ねていくことで、例えば長年連れ添った老夫婦が「ばあさんや」「はいはい、じいさん」だけで意思を疎通してしまうような関係へと結実していくのかもしれません。 このことからも「無視されたらどうしよう」「引かれるかもしれない」という小さな賭けを繰り返していくことが、儀礼や慣習に依存しない関係性をつくるうえで重要なのです。
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