なぜにぎり寿司は二個セットで注文するのか?寿司職人が告白した意外な理由とは

東京の寿司店の中には、二個セットでのみ注文をうける店があります。なぜ二個セットなのでしょうか?著書『牛丼の戦前史』https://www.amazon.co.jp/dp/B07XD81W7Qで寿司屋台とトロの近代史、寿司が重要な役割を果たす志賀直哉の小説『小僧の神様』の食文化史的背景を描いた食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。


なぜ「回らない寿司店」でも二個セットの注文なのか?

 東京の寿司店の中には、ニ個セットでの注文を必須とする店があります。

寿司二個セット(画像:写真AC)



 回転寿司ならば、二個セットの理由は分からないでもありません。あの皿に一個だけでは寂しいですし、値ごろ感からいっても、一個だけだとお高く感じます。

 しかし、カウンター方式の回らない寿司のお店、それなりの値段がする店でも、基本的に二個セットで注文を受ける店があります。それはなぜなのでしょうか?

華屋与兵衛が二個セットをはじめた説は誤り

 江戸時代の有名な寿司職人、華屋与兵衛が二個セット方式をはじめたという俗説がありますが、これは事実ではありません。

 華屋与兵衛の店与兵衛鮨は、昭和時代の初めまで存在しましたが、注文単位は「一人前」。二個セットどころか一個単位でも握りませんでした。

 1930(昭和5)年の時事新報家庭部編『東京名物食べある記』に与兵衛鮨の食レポが載っていますが、お品書きは「すし並五十銭、中七十銭、上一円」。目の前で握るのではなく、一人前を皿に盛ってテーブル席あるいはお座敷のお客に運びます。

昭和初期の与兵衛鮨の写真。皿に一人前を盛って提供。永瀬牙之輔『すし通』より引用(画像:近代食文化研究会)

 志賀直哉の小説『小僧の神様』において、小僧が腹いっぱい食べた寿司店のモデルとなったのは、華屋与兵衛の子孫が経営する「花屋」。ここでも小僧は一個ずつではなく「三人前」を食べています。

 『小僧の神様』の別の寿司店のモデルとなった店が「幸ずし」。小説の頃の 幸ずしの主人、1894(明治27)年生まれの杉山宗吉によると、明治時代の寿司店はどこも、一個ずつではなく一人前単位で出していました。

 ”当時どこの鮓屋でも、お好みの鮓にかかわらず、一人前ずつ(おもに七個、海苔巻きだけの場合は別皿)に盛ってお出ししたのです。”(『すしの思い出』)

大きな寿司を小さい二個の寿司にした説も誤り

 昔は大きかった寿司が現在では小さくなり、一個では物足りないので二個セットにしたという説があります。似た説に大きかった寿司を二つに切って食べやすくする代わりに、二個セットになったという説もありますが、いずれも間違いです。

 二個セットで寿司の注文を受ける店が現れたのは大正時代。その頃の寿司は、大人の男性でも一口では食べきれないほど大きい寿司が標準でした。つまり、寿司が大きい時代から既に二個セットだったのです。

昭和初期の宇の丸鮨の写真。永瀬牙之輔『すし通』より引用(画像:近代食文化研究会)

 これは最初に二個セットをはじめた店とも言われる(宮尾しげを『すし物語』)宇の丸鮨の写真。ご覧の通り、一口では収まらないほど大きいので、包丁で二つに切って提供しています。

昭和初期の新富鮨の写真。永瀬牙之輔『すし通』より引用(画像:近代食文化研究会)

 これも二個セットで出していた新富鮨の写真。当時としては標準的な、一口半の大きな寿司です。

二個セットをはじめた寿司職人の証言

  先程の「幸ずし」の杉山宗吉は大正時代に、それまでの皿盛り一人前方式に加え、注文ごとに二個セットで出す方式もはじめました。

 なぜ二個なのか。その理由としては、”一個では少なく、三個では多いと考えた”こともありますが、もう一つ理由がありました。

 ”二個ずつですと勘定もしやすく、また手間がはぶけます。”(『すしの思い出』)

 寿司店では、注文のたびに伝票を書かずに、注文をすべて暗記して精算時に暗算で総額を出す、という伝統があります。

 1910(明治43)年生まれ、全国寿司組合の会長として後進の指導にあたった大前錦次郎(きんじろう)は、注文の暗記のコツは二個セットにすることだと伝授します。

 ”昔から巷間(こうかん)に、すし屋はメシ粒で勘定しているのだと伝えられている。それはうそっぱちで、そんなことをしているすし屋は一軒もない。みな頭の中で暗算しているのである。コツは二個ずつペアで出すこと。 だいたい一人十個平均と見て、ペアで出せば五回重ねていけばいい。”(『鮨のわかる本』)

 つまり10個の寿司を一個ずつ握る場合、10個分の値段を記憶しなければなりませんが、二個セットならば5セットの値段をおぼえるだけでよく、記憶すべき量が半分で済むというのです。

なぜ関東大震災後から二個セットの店が増えたのか

 1906(明治39)年生まれ、日本橋吉野寿司三代目吉野昇雄(ますお)によると、二個セット、三個セットの寿司店が増えたのは関東大震災(1923(大正12)年)後だそうです(石毛直道『面談たべもの誌』)。

 なぜ 二個セットの店が増えたのか。それは、寿司店が屋台のマネをし始めたからです。

 1900年代はじめあたりから、寿司は寿司店や出前ではなく、屋台で食べるのが本当の通であるという「屋台至上主義」が芽生えてきます。

 ”若い貴族院議員のAは同じ議院仲間のBから、鮨の趣味は握るそばから、手掴(てづか)みで食う屋台の鮨でなければ解らないと云うような通を頻(しき)りに説かれた。”

昭和初期の新富鮨の店内の写真。客は店内の屋台で二個セットの寿司を立ち食いする。永瀬牙之輔『すし通』より引用(画像:近代食文化研究会)



 1920(大正9)年発表の小説『小僧の神様』のこの記述は、当時の屋台至上主義を反映したものです。寿司の「通」は、一人前単位で提供するそれまでの店舗形式ではなく、注文ごとに少しずつ握りたての寿司を提供する屋台形式こそ、本物だと思っていたのです。

 このトレンドに乗って、店の中に屋台を作り、二個セットずつ立ち食いさせることで繁盛した店が、先程の新富鮨です。

店内屋台からカウンターに

 幸ずしの杉山宗吉も屋台至上主義の影響をうけ、それまでの一人前注文だけでなく、屋台のような少量の注文も受けるようになります。

 その結果暗記すべき注文量が劇的に増えたため、記憶量を減らすために二個セット方式を導入したわけです。

 杉山宗吉によると関東大震災以後”東京鮓のほとんどが立食い式”となったそうです。新富鮨のような店内屋台方式の店が増えていったわけです。

 こうして屋台式の少量注文の店が増えるとともに、記憶量の節約のために二個、三個セットで握る店が増えていったというわけです。

 やがてこの店内屋台に、椅子がつくようになります。こうして完成したのが、今日おなじみのカウンター形式の寿司屋なのです。


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