渋谷区「本町」なのに渋谷駅からずいぶん離れている理由

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渋谷区「本町」なのに渋谷駅からずいぶん離れている理由

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昼間たかし

ルポライター、著作家

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渋谷区本町は、区の中心である渋谷駅周辺から遠く離れた場所にあります。本町なのになぜ? ルポライターの昼間たかしさんが解説します。

渋谷区の外れなのに……

 渋谷区の北部に位置する「渋谷区本町」は、区内でも独特なエリアです。なにしろ、渋谷区を名乗っているにもかかわらず、エリアの最寄り駅は

・都営大江戸線「西新宿五丁目駅」(北方面)
・京王新線「初台駅」(南方面)

で、区内のほかのエリアをつなぐ公共交通機関は比較的乏しく、渋谷区なのに新宿区の一部になっています。

赤枠のなかが渋谷区本町。渋谷駅から遠く離れている(画像:(C)Google)



 象徴的なのは、エリア内にある複合文化施設・東京オペラシティ(新宿区西新宿)です。

 東京オペラシティは新国立劇場と東京オペラシティビルを併せていますが、劇場は渋谷区に、ビルは新宿区にあります。エリアのランドマークすら半分は新宿区という事実が特徴を物語っています。

 そしてなぜか「本町」を名乗りつつも、広がっているのは静かな住宅街――。本町は言うまでもなく「都市の中心の町」という意味ですが、実際には渋谷区の外れです。渋谷駅から直線距離で3km以上も離れています。

 今回、この謎について編集長から解き明かすよう依頼を受けましたが、基本情報について調べてみたところ、新聞から雑誌に至るまで、この疑問に答えている記事はありませんでした。ただ、渋谷区本町について次の情報が得られました。

・かつて渋谷区幡ヶ谷本町(はたがやほんまち)と呼ばれていた
・1960年の町名地番整理で渋谷区本町(ほんちょう)に改められた
・1972年に渋谷区本町(ほんまち)になった

 というわけで、ここから立てられる問いは

1.なぜ「幡ヶ谷本町」になったのか
2.なぜ「ほんちょう」に改められたのか
3.なぜ「ほんまち」に戻ったのか

の三つに整理されます。

過去の地名を探る

 まず1の「なぜ『幡ヶ谷本町』になったのか」から調べてきましょう。

 この町名は、1932(昭和7)年の渋谷区誕生時に生まれました。もともと、渋谷区は豊多摩郡にあった

・渋谷町(しぶやまち)
・千駄ヶ谷町(せんだがやまち)
・代々幡町(よよはたまち)

が合併した区です。

 このうち、代々幡町が現在の渋谷区本町のエリアにあたります。代々幡町の前身は1889(明治22)年に

・代々木村
・幡ヶ谷村

が合併してできた代々幡村で、その後、1915(大正4)年に代々幡町となり、渋谷区誕生(1932年)後に前述の幡ヶ谷本町となりました。

渋谷区本町の明治初期の様子。幡ヶ谷村の記載がある(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)



 この命名経緯を示す資料は存在していません。ただ、江戸時代の幡ヶ谷村には

・新町
・原
・笹塚
・山谷
・本村

という五つの字(あざ)がありました、どうも、このなかの本村が本町の由来になったようです。

 ただ代々幡町にとって、幡ヶ谷本町への変更は不本意な結果でした。

 なぜなら、代々幡町では現在の新宿区を構成している淀橋(よどばし)町との合併を望む声のほうが多数派だったからです。ところが淀橋町は大久保町・戸塚町・落合町と合併して淀橋区となり、代々幡町は加われなかったのです。

 加われなかった理由はさまざまあったようですが、

「現在の新宿区の西半分 + 渋谷区の初台・幡ヶ谷・笹塚エリア + 代々木エリア」

でひとつの区にすると、35区制だった当時では面積も人口も大きすぎでした(実際、このときにできた板橋区は現在の練馬区も含んでいたために大きすぎて、発足当初から「独立運動」が始まり、戦後に分離しています)。

 対して、前述の

「渋谷町 + 千駄ヶ谷町」

だけでは小さすぎで、結局のところ、区の面積のバランスをとるために、代々幡町の意思が受け入れられなかったと考えることができます。

 そのため、現在の渋谷区本町は「渋谷区なのに新宿区っぽい」というより、そもそも「新宿区になりたかった」というが正確でしょう。

 また当時、新たな区の名前候補として代々木区という案もありました。もし渋谷区ではなく代々木区になっていれば、現在のような「渋谷区の外れ」というイメージは持たれなかったかもしれません。

 ここでおさらいとして、渋谷区本町の変遷をまとめておきます。

幡ヶ谷村

代々幡村(1889年、代々木村と幡ヶ谷村が合併)

代々幡町(1915年、町制施行)

渋谷区幡ヶ谷本町(1932年、渋谷町・千駄ヶ谷町と合併。1~3丁目まであり)

渋谷区本町(ほんちょう、1960年。幡ヶ谷本町1~3丁目と幡ヶ谷原町の一部を再編し1~6丁目が誕生)

渋谷区本町(ほんまち、1972年。町名を変更)

渋谷区で1960年に行われた「地番整理」

 続いて、なぜ「ほんちょう」に改められたのかを検証します。

 都内で町名の整理が進んだのは、1962(昭和37)年に住居表示に関する法律(住居表示法)が成立してからです。しかし渋谷区ではそれに先んじて1960年5月に「地番整理」を実施し、幡ヶ谷本町から本町(ほんちょう)に改めて、1~6丁目を設定しています(その後、1968年に住居表示を実施し現在の町域が確定)。

 住居表示は、住所を地番で管理すると、郵便物の配達などさまざまな面で支障がでることが問題となり行われたものです。戦後急速に都市化が進んだ渋谷区では、そんな問題がいち早く起こっていました。

渋谷区本町の様子(画像:(C)Google)



 さらに資料を探すと、1960年4月25日に発行された「東京都渋谷区公報」第136号に、町名と町域の決定を示す「渋谷区告示第18号」が掲載されています。ここでは、新設の町名について次のように記されています。

「新設町名は『ほんちょういっちょうめ』とよむ(以下、本町6丁目まで同じ記述が続きます)」

 しかしこれでは、「ほんまち」ではなく「ほんちょう」になった経緯はわかりません。そこで、当時の渋谷区議会の議事録を調べてみました。

 この頃の区議会の「会議録」は区議会に今も保存されています。これによれば、1960年の区議会で確かに新町名の議案が可決されています。しかし会議録では提案に対して「原案を全員一致で可決」とあるのみで、なぜ「ほんちょう」としたかは記載されていませんでした。また61年前の話であり、当時の事情を知る人も見つけられませんでした。

「ほんちょう」→「ほんまち」の理由

 では三つ目の謎である「ほんちょう」を「ほんまち」に戻した理由はどうでしょうか。

 1972(昭和47)年6月26日に発行された『東京都渋谷区公報』第282号では「東京都渋谷区告示第32号として、同年9月1日より「ほんちょう」を「ほんまち」に改めることが記されています。

『東京都渋谷区公報』第136号(画像:昼間たかし)



 議事録には、具体的な審議を行った総務財政委員会の報告が次のように記録されています。

「本町(ほんちょう)と呼んでいる区民もおり変更にあたっては十分なPRを行い、住民に迷惑しないよう執行に十二分な配慮を払われたい等の意見が出され慎重審議の結果原案を可決」

 このことから、町名の呼び名の変更については特に強い反対意見はなかったことがうかがえます。ただ、総務財政委員会の記録は既に保存期間をすぎて現存していないため、どのような議論が行われたかはわかりません。

「ほんまち」への変更、中野区が関係した?

 しかし、変更に至った理由を記したふたつの資料が見つかりました。ひとつ目は『区議会だより』1972年4月20日号です。ここでは「その後も住民のなかでほんまちと呼ばれている」として、呼び名の変更が可決したことを伝えています。

 さらに1983年に渋谷区立本町小学校創立60周年を記念して発行された『本町』という冊子では「町の名のうつりかわり」として次のように記しています。

「ほんちょうという町が、中野区にもあって、まちがいやすいので、昭和47年には、もとのように「ほんまち」とよぶようになりました」

渋谷区本町の近くにある中野区本町(画像:(C)Google)

 このように呼び名が「ほんまち」となった背景には、もともとは「ほんまち」であったことに加えて、すぐ近くにある中野本町(なかのほんちょう)と混同しやすいという理由があったようです。ただ既に数十年前で、かつ小学校の冊子ということもあり、確証を得るには至りませんでした。

 謎多き渋谷区本町――渋谷区なのに新宿区っぽいのではなく、新宿区になりたかったエリアとして語り継いでいきたいものです。

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