戦後のJR大森駅西口、廃れゆく「人力車」を最後まで引き続けた男性の生涯とは
華やかできらびやかな街というイメージが強い東京。しかし、大通りから1本路地に入れば、そこには昔懐かしい住宅地が広がり、名も知らぬ人々がそれぞれの人生を生きています。今回紹介するのは、かつて大田区の駅前で人力車を引き続けた男性の生涯についてです。東京・大田区を走り続けた車夫の生涯 きらびやかなばかりが東京ではない――。都心のふとした片隅に突如現れる、昭和のまま取り残されたような異空間。そこにもまた名も知らぬ人々が暮らし、大切な今日をただひたむきに生きていました。 ※ ※ ※ 東京は大田区、馬込の田代正さん(1978年に80歳で没)は1897(明治30)年生まれ。このあたりに最後まで残っていた車やさん、つまり人力車の車夫でした。 観光客に人気の高い現代の人力車(画像:写真AC) 人力車というと、今では観光客を相手にした商売で浅草かいわいあたりで見かけるくらいでしょうか。しかしかつては、人々の重要な交通手段として東京だけで何万台と走っていました。 人力車と「円タク」が混在していた時代 貴重な話をしてくれたのは孫の昭夫さん(仮名)。 田代さんは、JR京浜東北線の大森駅西口の辺りが“縄張り”で、多忙な頃は田代さんのほかに3台ほどが車夫をしていました。 現代の大森駅(画像:写真AC) 戦後になると東京の人力車は廃れていきましたが、ここらは空襲でひどくやられて、稼業は何とか続いた状態です。 1円タクシー(円タク)の方は東口が縄張り。だから円タクに乗りたい客は東口に、人力車に乗りたい客は西口に降りたのでした。 ひいきのお客をたくさん抱えてひいきのお客をたくさん抱えて ひいきの客はいろいろで、一番は同区山王の闇坂(くらやみざか)にあった病院。院長はじめ患者から毎日のようにお呼びがかかった。 急な坂道なので田代さんは決して慌てず、慎重の上にも慎重で、掛け声を出してジグザクに走っていたそうです。 大田区山王の闇坂(画像:写真AC) 建物に引っかけたり、通行人にぶつかったり、ひっくり返ることなど絶対にあってはなりません。 山王1丁目には、元首相・芦田均氏(1887~1959年)の自宅もありました。 『芦田日記』の1945(昭和20)年11月8日には「大森駅から人力に乗って急いで家に帰った」旨の記載があります。 今では確かめようがありませんが、もしかしたら、これは田代さんの人力車だったかもしれません。 安全と礼儀作法を重んじた職業安全と礼儀作法を重んじた職業 南馬込にあった練り物食品製造会社の社長にもずいぶんとかわいがられました。 運転手付きの米製自家用車ダッジも所有する社長でしたが、長年のお付き合いをしていて、この会社、今はありませんが、関東有数のハンペン生産をしていました。 テレビコマーシャルがまだ珍しい頃、スポンサー大手と名を連ね、工場に隣接したところに340坪の屋敷を構えていたといいます。 浅草・雷門通りの人力車(画像:写真AC) 山王から馬込あたりは道も狭く山坂が多い。乗合馬車もあるにはあったのですが、走る場所が違っています。 車夫は体力的にきつい労働です。西は池上本門寺、南は川崎大師まで走る。ただし、サラリーマンの月給が30円の時代に1日の稼ぎが多いときで15円にもなったとか。 車夫は礼儀作法を重んじました。言葉遣いはもちろん、汗が臭うと客に失礼だと、いつもかまどでお湯を沸かして体を拭いていたほどです。 粋な東京弁、ハレの日の思い出粋な東京弁、ハレの日の思い出 昔、NHKラジオ第1で放送されていたクイズ番組『話の泉』に、田代さんはゲスト出演したことがあるといいます。1955(昭和30)年の頃です。 司会は高橋圭三アナウンサー。解答者に音楽家の堀内敬三氏や、作詞家のサトウ・ハチロー氏、活動弁士の徳川夢声氏らが珍名解答をしていました。 これで田代さんは地元で一躍有名人になりました。 田代さんが『話の泉』に選ばれた理由は定かではありません。話し上手の粋な東京弁だし、親から2代目車夫として土地の物知りとして評判でもあったからでしょう。 初代も大森駅が開設された明治の始めから商いをしていました。いわゆる文明開化の人力車です。初代は人助けをしたり、強盗も捕まえたことがあったそうです。 時代とともに消え去った文化 田代さんは、乗用車がドサッと出てきて間もなく廃業し、畑違いの植木屋になりました。働き者だし、たまたま蓄えがあって、祖母を含めた家族5人が食うには困らなかった。 観光客を乗せて走る現代の人力車(画像:写真AC) ただ人力車もまた、時代の流れにあらがえない仕事でした。その時代の流れによって、ひとつの文化はいつの間にか消えていきました。 樹木に囲まれた田代さんの古い瓦屋根の家は、今も馬込桜並木のそばにひっそりとたたずんでいます。
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