新撰組が通り過ぎた街「綾瀬」 かつての農村に近藤勇と土方歳三の息吹を感じながら
1988年に起きた事件で一躍その名を知られることとなった、足立区綾瀬。そんな同地区の知られざる歴史について、ルポライターの八木澤高明さんが解説します。いまだ忘れられない1988年の出来事 都心への利便性から、近年人気が高まっている足立区綾瀬。一方で、この街の名を全国に知らしめたのは、ひとつの事件といっても過言ではないでしょう。1988(昭和63)年に発生した女子高生コンクリート詰め殺人事件です。 金子家に近藤勇が遺していった本人の写真(画像:八木澤高明) アルバイトを終え自転車で帰宅途中だった女子高生のFさんを少年らが拉致し監禁。その後40日間にわたって、集団で暴行、食事すら満足にあたえず、虐待の限りを尽くしました。衰弱しきったFさんは亡くなり、少年らはドラム缶に遺体を入れ、コンクリートを流し込んで密閉し、遺棄したのでした。 事件の現場となった家は、綾瀬駅から15分ほど歩いた住宅街の一角にありました。今ではその家はありませんが、家の周辺は当時のままです。 「うちは昭和47(1972)年にこのあたりの分譲住宅を買ったんです。4月に入居して、その1か月か2か月後にあの一家が移ってきました。あそこの家は当時の値段で1200万円ぐらいだったと思いますよ」 言葉の端々に東北訛りが残る近所の住民が、現場となった家に暮らした一家がこの土地へやってきた頃のことを覚えていました。 農村地帯で、江戸に米や野菜などを供給していた ここ綾瀬は今では住宅街となっていますが、高度経済成長がはじまるまでは、純然たる農村地帯でした。さらに遡って農村地帯となったのは、江戸時代はじめのことです。 江戸時代以前の綾瀬は、葦(あし)が生えるヤッカラと呼ばれる湿地で、人煙稀な荒れ地だったのですが、徳川家康が江戸に入府すると、江戸の外れであったこの地に、戦に敗れた北条家や武田家、織田家などの浪人などが住み着くようになったのでした。 浪人たちのフロンティアとなった綾瀬は、新田開発が進み農村地帯となり、百万人の人口を抱えていた江戸に米や野菜などを供給したのでした。 綾瀬だけでなく足立区の旧家の多くは江戸時代のはじめに足立区に根を下ろした人々の子孫といわれています。 綾瀬の旧家金子家。幕末には新撰組も滞在した(画像:八木澤高明) そのうちのひとつが、江戸時代末期に奧州へと逃れる新撰組を匿ったことでも知られている綾瀬の金子家です。 400年の歴史を誇る金子家400年の歴史を誇る金子家 金子家には今も、新撰組の隊士たちが寝泊まりした客間が当時のままに残っています。客間にある厨子の前には、近藤勇が金子家を去る際に残していった貴重な写真も飾られていました。 綾瀬駅の様子(画像:写真AC) その写真というのは、歴史に興味を持つ人であれば、新聞や雑誌などで一度は目にしたことがあるものです。 オリジナルの写真は金子家以外には存在しません。出回っているものは、すべてコピーされたものです。近藤勇は金子家を出た後、千葉県の流山で新政府軍に投降し、板橋で刑死していますから、もしかしたら、先は長くないと覚悟し写真を置いていったのかもしれません。 近藤勇ら新撰組隊士が身を寄せるほど、豪農として知られていた金子家のルーツについて、当主の方に尋ねてみました。 「江戸時代のはじめにこちらに来て、400年の歴史はあります。もともと八王子や日野。それがひとつの説としてありますね。ただ、それを裏付けるような資料は何も残っていないんですよ」 釣り上げた魚を子どもたちにあげた土方歳三 都心へのベッドタウンとして、農村の面影はほとんど無い綾瀬ですが、過去の風景を思い浮かべる一助となる話をひとつ。 新撰組土方歳三が釣りをした綾瀬川(画像:八木澤高明) 金子家で聞いた話です。新撰組の土方歳三は、綾瀬に滞在した間に綾瀬川に釣りに出かけ、釣り上げた魚を近所の子どもたちにあげたそうです。 その綾瀬川はコンクリートの護岸に覆われてしまって、やはり昔日(せきじつ)の姿は失われていますが、血で血を洗う戦いの日々を過ごした土方歳三が童心に帰って釣りをしていたというのは、なんともほのぼのとした気持ちになります。
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