自分も貧乏なのに、勢いあまって他人に大金を貸したら思わぬ結果となった『文七元結』【連載】東京すたこら落語マップ(2)
落語と聞くと、なんとなく敷居が高いイメージがありませんか? いやいや、そんなことないんです。落語は笑えて、泣けて、感動できる庶民の文化。落語・伝統話芸ライターの櫻庭由紀子さんが江戸にまつわる話を毎回やさしく解説します。吉原などを舞台とした人情噺 吉原と浅草、吾妻橋付近を舞台とした「文七元結(ぶんしち もっとい)」。大晦日の噺(はなし)として多くの噺家がかける、人情噺の大根多(ネタ)です。登場人物が多く、一度に3人の登場人物を演じ分ける必要があり、さらに場面が目まぐるしく変わるという、力量が必要な難しい噺でもあります。 一恵斎芳幾『佐野槌屋内黛□□之図』(画像:櫻庭由紀子)昭和の大名人であった六代目三遊亭圓生(えんしょう)を始めとする、歴代の大真打が得意としました。あらすじは次のとおり。 ※ ※ ※ 本所達磨横丁の左官の長兵衛。腕が良いのに博打に入れ込んでしまい、仕事もせずに借金はかさむばかり。年の瀬も押し迫ったある日、負けが込んで身ぐるみ剥がされ半纏(はんてん)一枚で賭場から家に戻ってみると、娘のお久が帰ってこないと女房が泣いている。長兵衛が真っ当に仕事をしないせいだとなじる女房との夫婦喧嘩の最中、吉原の遊女屋・佐野槌(さのづち)から使いが来て、お久がひとりで店にきていると伝える。 長兵衛が行ってみると、お久は借金を返すために身を売りにきたという。佐野槌の女将は、お久の優しさに免じて長兵衛に50両の金を工面し、来年の大晦日までに金を返せなかったらお久に客を取らせるという。長兵衛は金を借り、涙ながらにお久を置いて店を後にする。 待乳山聖天の横で振り返ると吉原の灯。必ず迎えに行くと誓い、吾妻橋を通りかかると身投げしようとしている男に出くわす。 聞くと男は、横山町の鼈甲(べっこう)問屋・近江屋の奉公人・文七といい、水戸の屋敷で集金して帰る途中、枕橋で50両をすられたらしい。詫びのしようがないから死ぬという文七を思い留まらせようと、長兵衛はお久の身と引き換えに借りた50両を叩きつけて達磨横丁に戻ってきてしまった。 横山町の近江屋では、文七が戻ってこないため大騒ぎ。実は文七は50両を屋敷に置き忘れてきていた。戻ってきた文七は真実を知り大慌て。主人が詳細を聞き、なんとか50両をくれた人物とその娘を突き止め、翌朝に達磨横丁へ向かった。 長兵衛の家では激しい大げんか。近江屋が訪ねて文七の失態を謝罪し、長兵衛と親類付き合いをしたいと申し出る。するとそこへ駕籠(かご)が付き、中から出てきたのは綺麗に着飾ったお久。近江屋が身請けをし、借金も返したという。 文七とお久も似合いの仲ということで、ふたり所帯を持ち麹町隼町(はやぶさちょう)に元結屋(もっといや。髪の根を束ねるための紐を売る店)を開いて仲睦まじく暮らしたという、おめでたいお話し。 ※ ※ ※ この噺は、近代落語の中興の祖である三遊亭圓朝の作。明治40年の初代三遊亭圓右(えんう)の速記によると、「故人圓朝が最も苦心していろいろ演り方を直してきました」とあり、ほぼそのままのストーリーで継承され、現代に至っています。それでは、長兵衛の足取りを実際に追ってみましょう。 文七のモデルは実在の人物文七のモデルは実在の人物 左官の長兵衛が住んでいたのは、本所達磨横丁。この横丁は実在したようで、葛飾北斎も晩年過ごしたといわれている横丁です。現在でいうと、東駒形1丁目の辺り。区画整理のためその横丁の場所ははっきりとしません。 長兵衛がお久を迎えに行ったのは、吉原の佐野槌。圓朝は吉原の女郎屋の大店「角海老」を設定していたのですが、昭和に入り、「角海老はこの噺の時代背景より後に最盛期を迎えており、佐野槌の方が内容にふさわしい」と六代目圓生や五代目志ん生が変更したと伝えられています。噺家はリアリティを追求するといいますが、こんなところにも噺への執念をみることができます。 吉原の入り口、東京都台東区千束4丁目の交差点には6代目の「見返り柳」。お久と引き換えに借りた50両を懐に押し込み、長兵衛は山谷堀に沿って歩き、「待乳山聖天」で吉原を振り返ります。 待乳山聖天(まつちやましょうでん。台東区浅草)は、「浅草名所七福神」の毘沙門天が祀られており、大根を奉納するすることでも有名。池波正太郎生誕の地としても知られています。 文七が飛び込もうとしていた吾妻橋。アサヒビール(墨田区吾妻橋)のビルや水上バスの発着所があることで、観光客でいつでも賑わっています。 隅田川にかかる吾妻橋(画像:櫻庭由紀子) 橋を渡り、隅田公園(墨田区向島)へ。ここは、文七が50両を置き忘れた水戸のお屋敷があった場所。桜の名所としても知られています。考えてみれば、集金した大金を忘れてしまうくらいですから、商人には向いていなかったかもしれません。元結職人として成功したのもうなずけます。 因みに、文七のモデル初代・桜井文七は実在の人物。元禄年間に長野県飯田市で開発した水に濡れても切れない丈夫な紙紐が、文七元結として有名になったとのこと。その後江戸に出て活躍したのを、圓朝がモデルにしたといわれています。 水戸のお屋敷を後にした文七が、50両の金をすられたと勘違いした枕橋。今でも隅田川から分かれた北十間川を渡しています。この川を下って行くと、東京スカイツリー(墨田区押上)です。 50両を恵む長兵衛の心理の解釈に注目50両を恵む長兵衛の心理の解釈に注目 さて、文七は吾妻橋から長兵衛から投げつけられた50両を持って自分のお店へと戻ります。文七が奉公していたのは日本橋横山町の鼈甲問屋近江屋。新宿白銀町のバージョンもありますが、どちらにしても浅草まではすいぶん距離があります。 交通機関のない江戸時代、どこに行くのも徒歩が基本。お店が日本橋の横山町にあったのなら、主人と文七は船で長兵衛の達磨横丁へ向かったのかもしれません。 歌川広重『東都名所 真土山之図(まつちやまのず)』。向島から隅田川越しに対岸の浅草を見た風景。待乳山(まつちやま)の上にわずかに待乳山聖天が顔を出している(画像:櫻庭由紀子) 大根多ゆえに、時代により噺家により作り込まれ、さまざまな解釈や演じ方があります。中でも、自分の娘が吉原に身を売ってまで手に入れた50両を赤の他人である文七に恵んでしまうシーンは、長兵衛の心理の解釈により演じ方の違いをみることができるでしょう。 そんな聴き方も意識してみると、また楽しいものです。年の瀬は「文七元結」の聴き比べなどいかがでしょうか。
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