江東区vs杉並区――世界有数の清潔都市「東京」を生み出した昭和「東京ゴミ戦争」をご存じか
- 高井戸駅
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出島造
フリーライター
極めて衛生的な都市として世界に知られる東京。そんなイメージが出来上がる裏には、数多くの苦労がありました。今回振り返るのは昭和の「東京ゴミ戦争」です。フリーライターの出島造さんが解説します。
東京が清潔な街になった理由
東京は世界でも極めて清潔な都市です。ヨーロッパではゴミのポイ捨てがよく見られますが、東京はあまり見られません。なぜなら、戦後、街を清潔にすることで伝染病の流行を減らしていったという背景があるからです。
ゴミ処理は現在でも、全国の行政が抱える重大な問題です。東京都ではかつて、この問題が深刻化したことがあります。それがよく知られる「東京ゴミ戦争」です。
江戸時代から、東京のゴミは一貫して東京湾の埋め立て地に運ばれ、最終処分されていました。明治以降、特に戦後になるとゴミは大量になり、廃棄物の種類も増えたため、その処理方法も変わっていきます。
東京初の清掃工場は現在の品川区大崎にできた大崎塵芥焼却場で、1924(大正13)年のことです。その後の1929(昭和4)年には、現在の江東区に深川塵芥処理工場が完成。ここは東京35区(当時)のうち、15区のゴミを処理する最大規模の焼却場となります。
しかしこれらの焼却場はかまどを使ってゴミを燃やすだけの施設であり、大気汚染を拡大していました。清掃工場も戦後になると進歩しますが、人口増にともない、都内のゴミの量も増加します。
東京都では
・夢の島(14号埋め立て地)
・新夢の島(15号埋め立て地)
を最終処分場としますが、残念ながら最終処分とは名ばかりで、回収したゴミはそのまま運び込まれ、埋められていました。
1961年当時、東京都のゴミのうち85%が直接埋め立てられていました。その結果、夢の島のあちこちでガスが自然発火し、ネズミやハエが飛び回るとんでもないこととなりました。
1965年夏にはハエが異常発生し、大群となって江東区南西部を襲うという事件もぼっ発。殺虫剤の散布では駆除が追いつかず、警察・消防・自衛隊も出動、発生地点となっていたゴミの断崖部分を焼き払う「夢の島焦土作戦」を実施し、ようやく事態は沈静化しました。
迫り来るごみの危機
1971(昭和46)年9月、こうしたなかで当時の東京都知事・美濃部亮吉は
「迫り来るごみの危機は、都民の生活をおびやかすものである」
として「ごみ戦争」を宣言します。この背景にあったのは、ゴミ処理を巡る文字通りの戦争というべき地域対立でした。
夢の島へとゴミを運ぶための収集車やダンプカーは必ず江東区内を通過するため、東京23区のゴミはほぼ一度、江東区に集まります。当時は今のようにゴミを袋に入れて分別する方式はなかったため、生ゴミを積んだ車が街なかを走っていました。現代の東京からは想像もできない悪夢です。
最近はマンションエリアに姿を変えつつある同区のある地区を取材した記事にはこう書かれています。
「ちょうど昼食時で、夢の島へ通じる辰巳団地わきの道路にずらりとトラックを並べたまま、運転手たちは近くの食堂にはいっているらしかった。道路にはトラックの落としたゴミが散らばり、汚汁が流れていた。プーンと鼻をつく悪臭、ずらりと並んだゴミ・トラック。「いつまで掃きだめにしておくつもりか」という住民たちの怒りが伝わってくうようであった。なにしろ、ここで毎日生活しているのである」(『諸君!』1973年3月号)
このような悲惨なこの状況は早くから問題になり、東京都では1956(昭和31)年から23区にそれぞれ清掃工場を建設し、処理をすることを基本方針とします。生ゴミの埋め立てを止め、ゴミを排出した地域で焼却処分し、灰を埋め立てるというわけです。
清掃工場建設を巡る江東区と杉並区の争い
これによって、23区では清掃工場の建設がそれぞれ進んでいきます。
そのなかで建設を巡って騒動になったのが杉並区でした。東京都では1966(昭和41)年11月、現在の京王井の頭線高井戸駅前に清掃工場の場所を決定。駅から1分の好立地な土地が選ばれたのは、都市化が進行していたとはいえ、まだ広大な未開発地があったから。さらに「この地域に区会議員がいないから」などといううわさもまことしやかに奉じられていました(『諸君』1973年3月号)。
確かにまとまった土地が確保しやすいのは事実でした。というのも、現在の清掃工場になっている敷地の半分近くが内藤庄右衛門家の所有。『新編武蔵風土記稿』『武蔵名勝図会』にも
「富めるといえど驕奢(きょうしゃ。おごっていてぜいたくなさま)の心無く」
と記されている古くからの地主です。
当時の地図を見ると杉並清掃工場北側のマンションが並んでいる辺りはすべて個人宅です。いくらまとまった土地が確保できるとはいえ、相談もなく建設が決定したことで周辺の住民は東京都に反発し、建設反対運動は激化します。
対する江東区も、杉並区に対して怒りの声を上げます。当時、江東区は山の手に対して公共施設の設備が3年遅れているといわれていました(『週刊朝日』1973年6月8日号)。江東区にしてみれば、「ゴミを押しつけているにもかかわらずどういうことだ」というわけです。そんななか、杉並区は土地の名士をみこしに担ぎ、反対の気勢を上げていたため、自体は泥沼化していきます。
もはや辛抱できない江東区では、搬入阻止の動きも始まります。1972年12月には当時の江東区長・小松崎軍次も参加し、杉並区からやってくる収集車を阻止する行動に出ます。これは東京都の説得ですぐに終息しますが、杉並区は清掃工場に関する会議に住民が乱入して会が流れるなど、状況は深刻になっていきました。
和解は1974年、8年後に清掃工場完成
当時の東京の人たちは、江東区に対してとても同情的でした。というのも、江東区だけがゴミで迷惑している状況はあまりにもひどいと、誰もが感じていたからです。対して、杉並区の側には「ごね得を狙っているのではないか」という批判的な風潮がありました。
さらに問題が混乱していたのは都政の事情です。
当時は社会党・共産党の支持を受けた美濃部都政の時代。対して都議会は1969(昭和44)年の選挙で、自民党が51議席に対して社会党が20議席、共産党が18議席。勢力差が微妙ななかで、どの住民の意見を反映させればよいのか、議員も混乱していたのです。
結局、杉並区の清掃工場用地は1974年に至り、ようやく和解が実現。1982年に完成へと至りました。この清掃工場は2017年に建て替えられましたが、この際に東京ごみ戦争歴史みらい館(杉並区高井戸東)が建設され、歴史を伝えることとなりました。
この一連の出来事は、住民に負担をかける公共施設の建設にあたって行政や住民はどう考えるべきかを問うものとして記憶されています。東京が清潔な都会として成長するためには、こうした苦労の歴史があったのです。