なぜ日本では「エスニック料理 = 東南アジア」と認識されているのか【連載】アタマで食べる東京フード(5)
味ではなく「情報」として、モノではなく「物語」として、ハラではなくアタマで食べる物として――そう、まるでファッションのように次々と消費される流行の食べ物「ファッションフード」。その言葉の提唱者である食文化研究家の畑中三応子さんが、東京ファッションフードが持つ、懐かしい味の今を巡ります。本来は全ての民族料理が「エスニック」 外出自粛中に全国で品薄になり、スーパーの売り場から消えたのが、小麦粉、ホットケーキミックス、バター。巣ごもり生活でスイーツの手作りが流行して需要が急増し、供給が追いつかなくなったためでした。 普段できないことがやれる時間的余裕もさることながら、ストレスで甘いものが食べたくなる心理的要因が大きかったと思われます。苦境にある外食店とは対照的に、街のお菓子屋さん、パン屋さんの売り上げも好調でした。 元通りの生活がすぐ戻るわけではなく、ストレスフルな暮らしは続くでしょう。2020年も猛暑らしいので、これからの季節は甘いものにかわって辛いものでストレス解消してはいかが? ということで、今回はエスニック料理の話です。 エスニック料理といえば、東南アジア料理――日本人はいつからそう認識するようになったのか(画像:写真AC) いまでは家庭料理、飲食店のジャンル分けに「和・洋・中・エスニック」と併記されるのが普通になり、食の分野でも頻繁に使われるようになった「エスニック」。 本来は「民族的な」「民族特有の」という意味で、1970年代後半から音楽とファッションの最先端トレンドとして登場した言葉です。 音楽では、テクノポップに東洋趣味を融合させたグループ「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」、ファッションでは民族調を打ち出した高田賢三(KENZO)などが典型。ロックもクラシックも欧米一辺倒、ファッションはパリのモードを崇拝していた日本人にとって、画期となる出来事でした。 80年代になると、エスニックは食の世界にも広がりました。記念すべき女性誌初の特集は、『Free』(平凡社)1983(昭和58)年12月号、タイトルはそのものズバリの「エスニックを食べる」。 『東京エスニック料理読本』(冬樹社)と『食は東南アジアにあり』(弘文社)が刊行されたのが翌1984年。さらに1985年になると、もう「これを食べないと時代に遅れる」的なブームの様相を見せていました。 芽生え始めたアジア文化への関心芽生え始めたアジア文化への関心 言葉の意味からいえば、すべての民族料理がエスニックですが、最初のブームは東南アジアの辛くてスパイシーな料理、特にタイ料理から始まりました。 エスニック料理がブームになったのは、音楽とファッションよりさらに革命的な事件でした。 なぜなら明治以来、日本人は西洋料理に対して信仰に近いあこがれを抱き、海外からやって来てブームを起こしたのはヨーロッパとアメリカの食べ物ばかりで、アジア諸国、とりわけ東南アジアは1段下に見る傾向が強かったからです。 低かった料理に対する意識が一変することで、アジアの文化全般への関心が高まり、差別や偏見の解消につながったのは特筆に値します。 同じ頃、スナック菓子やインスタントラーメン、菓子パンなどの加工食品では「激辛」ブームが巻き起こりました。これも日本人の味覚史上、画期的な事件。ふたつのブームから見えてくるのは、より刺激的な味を求めるようになった嗜好(しこう)の変化です。 エスニック料理が台頭した理由のひとつに、その頃から東南アジアを旅する若者が増えたことがあります。 タイ料理店「バンコク」の創業は1983年。当時、日本には2軒しかタイ料理店はなかった。もう1軒は有楽町の「チェンマイ」(画像:畑中三応子) それまでの東南アジア観光といえば中年男性ばかりで、目的はゴルフと遊興。現地食は眼中になかったのに対して、異文化との出会いを求めて旅に出た若者たちは、トムヤムクンやゲーン(タイカレー)のおいしさを知り、生トウガラシやアジアンハーブの刺激に魅せられ、帰国してから食べられる店を探したのがひとつ。 また、1985(昭和60)年のプラザ合意で急速に円高が進んで日本企業が東南アジアに進出し、東南アジアから来日するサラリーマンや労働者が急増した結果、フードビジネスに進出する個人や企業が現れたことも背景にあります。 実は私(畑中三応子。食文化研究家、料理編集者)もタイ旅行で食べ物にすっかりはまり、どうしてもその魅力を伝えたくて『エスニック料理 東南アジアの味』(中央公論社)を作りました。 たった3年で日本に定着した大躍進たった3年で日本に定着した大躍進 大判の写真と詳しいレシピで東南アジア料理を紹介した日本で最初の本で、発売は1986(昭和61)年の夏。取材で聞くことすべてが目新しく、タイの激辛極小トウガラシ、プリッキーヌに思わず言葉を失ったり、一人前に大さじ山盛り2杯の粉トウガラシが入ったビーフンにもん絶したりと、楽しくも刺激に富んだ編集作業でした。 この本の制作時はまだ店の数は少なく、東京でタイ料理とインドネシア料理の店が各3軒、ベトナム料理が4軒、カンボジア料理が2軒、フィリピン料理が1軒しかなかったので、どの店を取材しようかと悩まずにすみましたが、わずかの期間で雨後のタケノコのように増えました。 『Hanako』の特集タイトルを見てみると、1988(昭和63)年6月23日号は早くも「ニョクマム、ナムプラがしょうゆワールドをやっつけた。東京には東南アジアがいっぱい」。1989年12月14日号になると、「もう、ただの流行なんかじゃない。エスニックも無国籍料理も、珍しさではなく質で選ばなきゃ」と、たったの3年間ですでに定着していたことが分かります。 中でも出店が多かったのが、タイ料理です。現地から料理人を招くのに政治的な障害が少なく、経済的な結びつきが強かったことも有利に働きました。 タイ風ビーフン炒めの「パッタイ」。タマリンド(マメ科の植物)で甘酸っぱく味つけるのが特徴(画像:畑中三応子) 1996(平成8)年には東京都内だけで100軒を超え、関東地方全体では200軒近く。洗練された宮廷料理から庶民的な屋台料理まで、より本格的な味が楽しめるようになっていました。 90年代からはベトナム料理が脚光を浴び、生春巻きやフォー、バインミー(ベトナム風のバゲットサンド)が人気を集めました。第1次タピオカブームも同時期です。大手食品会社がトムヤムクンやタイカレーなどのエスニックフードを開発し、家庭料理のなかにも入っていきました。 「アジアごはん」という愛称の必然性「アジアごはん」という愛称の必然性 これほど普及が早かったのは、ご飯とおかずという基本が共通しているので取っ付きやすく、野菜たっぷりでオイルは少なめ、辛くてもさっぱりな味が日本人の舌にあったからでしょう。 「アジアごはん」という愛称ができたのも、親しみやすさから。どんなにブームになっても、「イタリアンごはん」や「フレンチごはん」と呼ばれないのとは、大きな違いです。 タイ風グリーンカレー「ゲーン・ガイ」。日本でもっとも好まれるタイ料理のひとつ(画像:畑中三応子) 現在、スーパーやコンビニには、トムヤムクンやタイカレーの素や、生春巻き、ガパオなどのエスニック総菜が並んでいます。2013年からのパクチーブームのおかげで、新鮮なパクチーが手頃な値段でどこでも買えるようになりました。 いまでは鍋料理ひとつとっても、エスニックテイストは欠かせない要素。エスニック料理は日本人の味覚の幅を広げ、家庭料理を変え、食の多様性をより高めてくれています。 エスニック料理の店は小規模な個人店が多く、新型コロナの営業自粛によるダメージは並大抵ではないと思います。多くの店がテイクアウトで乗り越えようと奮闘しました。 2020年の夏はエスニック料理を食べる頻度を増やして、応援したいもの。辛い食べ物には食養増進や血行促進の効果があり、結果として免疫力を高めるのに役立つとも言われているので、一石二鳥です。
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