昔は工場地帯、今やタワマンシティー 意外と知らない「大崎」のディープな歴史をたどる
20世紀末以降、めまぐるしい変化を遂げている大崎駅周辺。その歴史はいったいどのようなものだったのでしょうか。フリーライターの小西マリアさんが解説します。かつて木造住宅と工場群が並んでいた大崎 山手線とりんかい線のターミナル駅としてにぎわいを見せる大崎駅(品川区大崎)ですが、20世紀末までは鶯谷駅と競い合うほど、山手線屈指の地味な駅でした。 大崎駅近くから西口方面を望む(画像:写真AC) 現在はタワーマンションが立ち並んでいますが、当時、駅周辺に広がるのは木造住宅と工場群で、駅前には繁華街もほとんどなくとても静か。 都心に位置するにも関わらず、京浜工業地帯の一部であることを強く感じさせる、独特のディープな味わいがあったのです。 大手企業の工場が集結 大崎という土地が工場地帯として開発されるようになったのは、明治時代から。 日本初の板ガラス製造工場である「興業社」が設立され、目黒川の水を豊富に利用できる大崎にはどんどん工場が建設され始めました。 明治以降、大崎には明電舎をはじめ、高砂工業や日本精工、星製薬など多くの企業が拠点を置きました。 1930年頃の日本精工本社・本社工場(画像:日本精工) 大崎駅の存在意義というのは、こうした工場で働く人々が通勤で利用する駅としての色が極めて強いものでした。ゆえに、おしゃれな店などは皆無。 むしろ工場で働く人向けの食堂など質実剛健な店ばかりで、山手線の駅の中で独特な雰囲気がありました。 高度成長期が終わる頃までは特にそのような色彩が強く、大崎駅周辺の風景といえば鈍(にび)色の工場。その周囲には、木造住宅や独身向けのアパート。工場の騒音も強いばかりか、河川改修がおざなりになっていた目黒川は悪臭を放っていたといいます。 大規模再開発エリアが作られるも後に続かず大規模再開発エリアが作られるも後に続かず そんな工業地帯の風景が終わったのは20世紀末のことです。 他の地域もそうであるように、23区内に工場を持つ企業は郊外や地方、そして国外へと移転をしていきました。理由は、環境の悪化と都市の拡大で工場が手狭になったためです。 さらに都心回帰の風潮で、企業が地価が高い都心の一等地は別の使い方をしたほうがいいと考えるのは当然のことでした。 大崎駅周辺の再開発が始まったのは割りと早く、星製薬や日本精工の工場跡地に再開発地区「大崎ニューシティ」(品川区大崎)が建設されたのは1987(昭和62)年のことです。 大崎駅東側に位置する大崎ニューシティ(画像:写真AC) ところがこれ以降に続く再開発がなかなか始まらなかったこともあり、かつてのレッテルを剥がすまでには及びませんでした。 むしろその後の再開発が開始されるまで、大崎周辺に住む住民たちの口癖は「大崎ニューシティ以外になにもない」がもっぱらでした。 ゲートシティ大崎とりんかい線の衝撃 大崎の地位に変化が起こり始めたのは、1999(平成11)年の「ゲートシティ大崎」(品川区大崎)の誕生です。 ゲートシティ大崎(画像:写真AC) ゲートシティ大崎の登場は、地元民にもかなりの衝撃を与えました。ビルに用事がなくても利用できる飲食店が、開業当初から充実していたからです。 当然、周辺住民の間では「大崎におしゃれな店が入ったビルができた」と大いにうわさとなりました。 それからというもの、再開発はあっという間に進み、大崎駅周辺ではタワーマンションが当たり前に見られるようになりました。 また、2002(平成14)年のりんかい線開通も大崎を変えました。 それまでは山手線が止まるだけの駅でしたが、瞬く間に湾岸へと向かうターミナルとなったのです。 かつての大崎を残すふたつのスポットかつての大崎を残すふたつのスポット すっかり昔の姿を消してしまった大崎駅ですが、まだ幾分かつての風景が残っています。 中でも目立つのはふたつ。ひとつは、大崎ニューシティと道路を挟んで向かいにある階段だけの駅入り口。 ターミナルとして大幅にリニューアルした大崎駅の中で、なぜかここだけ、かつての大崎駅そのままに残されています。大崎ニューシティ側に行くときのメインルートから外れているために、誰も使う様子がありませんが気になる存在です。 もうひとつが、駅西口にあるレンガ造りのアーチが印象的な「ニュー大崎店舗街」です。 駅西口のレトロな「ニュー大崎店舗街」(画像:(C)Google) ビルの一階部分を使った商店街で、現在は居酒屋がちらほらとあり、既に営業していないエリアも見られます。かつてはゲームセンターに大学生が集まり、大崎で唯一の繁華街と言えるようなスポットでした。 大崎には、まだいくつもの再開発計画があります。わずかに残されたかつての風景を目に焼き付けるために、一度足を運んでみることをお勧めします。
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