環状7号線の下には「戦国城跡」が眠っている!? 高度成長時代に失われた歴史の痕跡を探して
東京23区にある城跡といえば、誰もが思い浮かべるのが「江戸城」。しかしそれ以外はほとんど知られていません。遺構の残っていない城跡を探す歴史ライターの永嶋信晴さん、今回は、葛飾区内に眠る「葛西城跡」を巡ります。低地の多い東京・下町にどう城を築いたか 以前、大田区の馬込城跡を紹介した記事(2021年10月11日配信)の中で、「戦国城跡」の痕跡を探す手掛かりとして以下の“必要4条件”を紹介しました。 1. 見晴らしのよい高台 2. 台地のまわりが急峻な崖になっている 3. 台地の中に一定の広さの平坦な土地がある 4. 近くに川が流れている かつて、東京23区にあった城は、これらの条件のもとに作られることが多いですが、もちろん例外も少なくありません。たとえば、城を作りたい場所に、高台がないケースです。特に東京の下町は標高が低く、起伏もあまりありません。 「葛西城」跡として残る、葛飾区青戸の御殿山公園(画像:永嶋信晴) あとで述べますが、東京の下町は、戦国の武将たちにとって戦略的に重要な場所でした。当然、堅固な城が必要です。戦国の人たちは、フラットな土地にどのようにして城を築いたのか。 ……ということで今回は、葛飾区にあったという戦国の巨大城郭「葛西城」を紹介したいと思います。 戦国時代の葛西城は、その規模や立地から、一目置かれる存在だったのは間違いありません。残念なのは、現在その痕跡がまったく残っていないこと。 以前紹介した馬込城も痕跡はほとんど残っていませんでしたが、舌状台地の高台に戦国の城の存在をうかがわせるアイテムはいくつか確認することができました。 しかし現在、当該の場所に葛西城があったことを、何の予備知識もなく確認するのは難しいでしょう。平坦な土地は、都市化が進む都会ではひとたまりもなく開発されてしまいました。 高台というアドバンテージがないので、上記の「戦国城跡」の痕跡を探す4条件のうち該当するのは「近くに川が流れている」ということだけです。 ただ、城の近くを流れる中川は、利根川水系の一級河川。水量がとても豊かな川です。葛西城は、該当するひとつの条件を最大限に生かして、堅固な城を築いたと言っていいでしょう。 なぜ城跡のど真ん中を環七が?なぜ城跡のど真ん中を環七が? 葛西城は痕跡が全く残っていないと書きましたが、その大きな原因のひとつは、環状7号線の建設です。 葛西城跡にある御殿山公園に、当時の曲輪や水堀の位置を示した城絵図があります。それを見ると、一刀両断という形で城のど真ん中を環状7号線が貫いていることが分かります。 環状7号線の両サイドにある、御殿山公園と葛西城址公園(画像:(C)Google) この地域に環状7号線が開通したのは昭和40年代。それまでは城の痕跡が多少残っていたそうです。現在であればその建設に対して、多少の遠慮というか遺跡の保護がさけばれたかもしれません。 歴史を勉強していると、高度成長時代に多くの遺跡が失われていることに気づきます。一切の忖度なしに道路が建設されたのは、昭和という時代背景だったのでしょう。 日本の GNP(国民総生産) は、1966(昭和41)年にフランスを、翌1967年にイギリスを抜き、1968年にはアメリカに次ぐ世界第2位になりました。 当時の中高年は皆、戦争に負けた悔しさを体験している世代。私も子ども心に、経済で欧米を見返してやるという大人たちの気迫を感じていました。“一等国”の仲間入りをするため、遺構の保護よりも、新たな工場や道路の建設を優先したのでしょう。 葛西城も戦国の歴史の一部なら、環状7号線も昭和の歴史の一部。どちらも、その時代に生きた人たちの切羽詰まった思いが込められているのは間違いありません。ただ、戦国時代の人たちの思いが込められた遺構も、この目で見たかったですが……。 戦国時代、激戦の舞台になった葛西城戦国時代、激戦の舞台になった葛西城 葛西城跡は、環状7号線が水戸街道と交差する青砥陸橋から、葛西駅方面に歩くこと約200mの場所にあります。 何度も触れたように、城の主郭部分は環七によって分断されており、道路の両脇に小さな公園があります。西側にあるのが御殿山公園で、環七を挟んで東側にあるのが葛西城址公園です。 御殿山公園は、葛西城の本丸御殿がネーミングの由来かと思いがちです。ただ、ここにはかつて徳川家康の「青戸御殿(葛西御殿)」と呼ばれる陣屋が建てられていました。3代将軍家光の頃まで、将軍の鷹狩りの折などに休憩所として使用されたのだとか。 御殿山公園内にある、葛西城の縄張りを示したイラスト(画像:永嶋信晴) 青戸御殿が存在していた頃は、おそらく土塁や堀も多少は残っていたのでしょう。しかし、明暦の大火(1657年)で焼失した江戸城再建の資材に利用するため、御殿が取り壊されてしまったそうです。 御殿山公園には、「青砥藤綱城跡」と書かれた石碑があります。青砥藤綱(あおと ふじつな)とは、鎌倉時代後期の武士で「太平記」にも登場する人物。 青砥藤綱が葛西城主だったという伝承はあるものの、詳しいことは分かっていません。解説板によれば、築城者と築城年代は不明とありました。 葛西城は、室町時代の初期に関東管領上杉氏がこの地に築いたのがはじまりと言われ、 当初は大石石見守という武将が城を守っていたそうです。その後、戦国時代に小田原の後北条氏が葛西城を攻め落とし、家臣の遠山氏が城主として在城。豊臣秀吉の小田原征伐まで、この地域の拠点として栄えていました。 この城が重視されたのは、武蔵と下総との国境に近い場所にあり、今の千葉県北部に当たる下総国に対抗する重要拠点だったからです。 北条氏と里見氏をはじめとする房総の諸将との間で戦われた国府台合戦では、北条方の前線基地として、安房の里見軍から盛んに攻撃を受けたそうです。 遺構なき葛西城の痕跡を見つけられるか遺構なき葛西城の痕跡を見つけられるか 後北条氏の最前線の城として、高い防御力を発揮したのは広い水堀でした。 近くに流れる中川を天然の要害として外堀に見立て、城の反対側は湿地帯で、敵は容易に近づくことができません。さらに、水量の豊富な中川から水を引いて内堀を作り、その幅は20mほどもあったとか。 御殿山公園内に、当時の葛西城の縄張りを示したイラストがあります。それを見ると、歴史小説『のぼうの城』で有名な忍城のような水城だったことが分かります。 ただ、御殿山公園は、ものの1~2分で一周できてしまいます。近くの住宅街も歩き回ったのですが、残念ながら城跡を思わせる痕跡は何も見つけられませんでした。 環状7号線を渡って、葛西城址公園へと向かいます。この広い道路の下に、城の中心部が眠っているかと思うと感慨もひとしおです。 ただ、城址公園といっても、こちらは普通の児童公園とどこが違うのかといった感じでした。 戦国時代の城があったとは思われぬ、のどかな光景(画像:永嶋信晴) 先ほど見た城絵図によれば、この公園は主郭の端っこの部分にあります。そう考えると、主郭部と公園の外側の輪郭線のカーブが微妙にマッチングする気が……。 公園の外側を低い石垣で囲むのも、何となく意味深です。 土地の区画は、当時の影響が残っているのかもしれない……と思い、家に帰って葛西城の縄張りと現在の道路の位置をネットで調べてみたのです。すると、かなり一致していることが分かりました。 埋めた堀を道路として利用しているのかもしれません。公園の周りを広い水堀が囲んでいると思えば、当時の葛西城のイメージに近づけるでしょうか。 公園のそばにある青砥神社にお参りし、中川の土手に出てみました。今もゆったり流れる中川は、当時の葛西城の難攻不落を証明するかのよう。 この豊富な水を引き込んで、広い水堀をめぐらしていたのですね。 戦国のリアルを伝える地元の博物館戦国のリアルを伝える地元の博物館 以上のレポートだけでは、単なる城好きの妄想と思われるかもしれません。しかしうれしいことに、近くに葛西城をビジュアルで体感できる施設があるのです。 それは、葛飾区郷土と天文の博物館(葛飾区白鳥)2階にある「郷土史のフロア」。 葛飾区郷土と天文の博物館(画像:永嶋信晴) 2020年の11月にリニューアルオープンしたばかりということで、中はピカピカ。 環状7号線の開通で遺構は破壊されてしまいましたが、その際、発掘調査が行われたそうです。その後も、引き続き調査が続けられたとのこと。 葛西城があった場所は、地形的に遺構が残りにくいと書きました。しかし、標高1mほどの低地にあって地下水位が高いので、埋もれた木製品などが良い状態で保存されるメリットがあったそうです。 事実、博物館の展示品にはほかの城跡ではあまりお目にかかれない木製のお椀や下駄、櫛(くし)などが多数並んでいました。 将棋の駒や羽子板なども。現代の私たちと同じように、家族で楽しんでいたのでしょうか。 以前来たとき、葛西城の堀の跡から発見されたという若い女性の頭蓋骨の映像があったことを思い出しました。頭蓋骨から復元されたという顔の模型もあり、気品のある美しい女性だった記憶があります。 実は、その頭蓋骨には、刀で斬られた傷があったのです。打ち首のあと、堀へ投げ落とされたことが予想されるという説明がありました。 ひとつの頭蓋骨から想像されることひとつの頭蓋骨から想像されること 驚いたのが、スパッと切られた切り口の見事さ。思わず打ち首のシーンが目に浮かんで鳥肌が立ちました。 葛飾区郷土と天文の博物館の貴重な展示物(画像:永嶋信晴) 別の者が体を押さえながら、腕に自信のある武士が切ったのか。見つかったのは頭蓋骨だけとのことで、どのような理由で堀に投げ捨てられたのか――。いろいろ推理したのを覚えています。 たったひとりの女性に対して、武士がこれだけ手間をかけているわけですから、一般庶民ではなく城主の妻とか、身分のある女性だったのではないか。 歴史小説では、首をいくつ取ったとか、取られたとかいう表現が頻出しますが、あまり意識しないで読み飛ばしてしまいます。 この頭蓋骨を見てから、戦国に対するイメージが変わりました。憧れとかロマンではない、リアルな戦国の恐ろしさです。それ以来、城跡を訪れて土塁や空堀を眺めるたびに、戦国の人たちの必死さを実感するのでした。
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