京王線・代田橋駅近くで静かに佇む「巨大コロシアム」の正体
京王線・代田橋~明大前間の車窓を眺めていると「古代の要塞」のような建物が突如現れます。これはいったい何でしょうか。ライターの野村宏平さんが解説します。京王線の車窓から見える巨大建築物 京王線の代田橋~明大前間で南側の車窓を眺めていると、線路と並行する「井ノ頭通り」の向こう側に特徴的な古い建物があるのが目に入ってきます。まるで古代の要塞(ようさい)かコロシアムを思わせる巨大な円筒形の建築物で、中心部には白亜の塔がそびえ立っています。東京都水道局和田堀給水所(世田谷区大原)の1号配水池です。戦前から千代田区、渋谷区、世田谷区、港区、目黒区などへの配水をおこなってきた重要な施設ですが、現在、周辺では大規模な工事が進行中です。 和田堀給水所の1号配水池(画像:野村宏平) 敷地の外側では、京王線の連続立体交差事業(高架化)にあたり、井ノ頭通りの車道を南側にずらす工事がおこなわれています。 一方、敷地内では老朽化した施設を建て替える工事が2016年から進められています。 以前は1号配水池の隣に同規模の四角い2号配水池がありましたが、すでに取り壊され、跡地に新しい2号配水池が建設中です。配水をストップするわけにはいかないので1号配水池はまだ残されていますが、新2号配水池が完成すれば、1号配水池も建て替えられるとのこと。 当初の予定より工期は延びているようですが、この重厚な歴史的建造物を見られるのも、あとわずかの期間だけかもしれません。 和田堀給水所の歴史 和田堀給水所の歴史は計画段階を含めると、いまから100年以上前にさかのぼります。明治時代末期、急激に人口が増加した東京市では、水道水の供給が既存の施設だけではまかないきれなくなる不安が生じていました。 そこで、西郊の狭山丘陵に村山貯水池(通称・多摩湖。大和市多摩湖)を築造して、多摩川の羽村取水堰(せき)で取り入れた水を貯留。北多摩郡武蔵野村(現・武蔵野市)の境浄水場(同市関前)へ導水して浄水処理したあと、和田堀浄水池(和田堀給水所の旧称)を経て市内へ配水するという計画が立てられました。 これがのちに第1次水道拡張事業と呼ばれるもので、1912(大正元)年に認可され、翌1913年に着工されました。 途中、第1次世界大戦による経済の混乱や関東大震災の被害があったため、工事は長引きましたが、1924年、取りあえず第1期工事が完了します。このとき、村山上貯水池や境浄水場などとともに和田堀浄水池も完成し、長さ約78m、幅約66m、高さ約10mという長方形の配水池(のちに2号配水池と呼ばれる)が完成しました。 解体前の2号配水池。長方形の台のような建造物で、上に古代神殿のような建屋があった(画像:野村宏平) 昭和に入ると第2期工事がスタートし、1934(昭和9)年、東京市の配水能力を高めるため、敷地の西側に円形の新たな配水池が増設されます。これが現在残されている1号配水池です。直径は約80m、壁の高さは約11m。中央にそびえているのは排気塔です。 貯水量はどちらの配水池も3万立方メートル。合わせて6万立方メートルですが、現在の建て替え工事が完了し、配水池がふたつとも新しくなると、貯水量が11万立方メートルに増大する予定です。 和田堀給水所の「副産物」だった井ノ頭通り和田堀給水所の「副産物」だった井ノ頭通り 第1次水道拡張事業によって境浄水場と和田堀浄水池のあいだに、境和田堀線と呼ばれる導水路と送水路(導水は浄水処理前の原水を浄水場に送ること、送水は浄水処理された水を配水拠点に送ること)が設けられたわけですが、1937(昭和12)年、その埋設地を道路として整備したのが現在の井ノ頭通りです。 当初は単に「水道道路」と呼ばれていましたが、1938年、荻窪の邸宅からこの道を通って議会に通っていた内閣総理大臣・近衛文麿が「井の頭街道」と命名しました。 ちなみに当時、近衛が住んでいたのは、元首相の西園寺(さいおんじ)公望によって荻外荘(てきがいそう)と名付けられた別荘です。本邸は目白にありましたが、近衛は荻外荘が気に入り、ここに住みつづけたといいます。 井ノ頭通りが甲州街道と交差する松原交差点北側にひっそりとたたずむ「井の頭街道」の石碑(画像:野村宏平) そのときに建てられた井の頭街道の石碑が甲州街道と交わる松原交差点の北側、和泉水圧調整所の前(杉並区和泉2)にたたずんでいますが、このあたりは、玉川上水とその新水路の分水点にもなっており、かつては「水道横丁」と呼ばれていました。 その名は近くのバス停にいまも残されています。なお現在は、玉川上水新水路の上に造られた西新宿~和泉2丁目間の道路(都道431号角筈和泉町線)が水道道路と呼ばれています。 給水所近くにクランク・急カーブがあるワケ 井の頭街道の範囲は当初、和田堀給水所から吉祥寺駅の南側(吉祥寺南町1)までとされていましたが、東京オリンピックを翌年にひかえた1963(昭和38)年、東京都は渋谷駅近く(渋谷区宇田川町。現在の西武渋谷店A館とB館のあいだ)から和田堀給水所に至る東側の区間(和田堀水道路)を追加し、「井ノ頭通り」と改称しました。 その際、和田堀給水所の東側と北側を通る道路も井ノ頭通りに組み込まれたため、給水所の敷地をクランクと急カーブで迂回(うかい)する不自然な道筋になってしまいました。 和田堀給水所の敷地をクランクと急カーブで迂回する不自然な道筋(画像:(C)Google) ドライバーからすれば、和田堀給水所は井ノ頭通りの行く手をふさぎ、スムーズな走行をはばむ元凶のような存在に思えるかもしれませんが、そもそも和田堀給水所があったからこそ生まれた道路が井ノ頭通りです。和田堀給水所がなければここに水路が設けられることはなく、井ノ頭通りも造られていなかったでしょう。 現在、この付近は道幅が狭い上、京王線の踏切もあるため渋滞が発生しがちですが、将来的には、給水所の南側に道路を移設してクランクと急カーブを解消し、幅員も拡張する計画が立てられています。 これが完成して京王線も高架化すれば、井ノ頭通りの交通事情は大きく変わることでしょう。 井ノ頭通りから多摩湖自転車歩行者道へ井ノ頭通りから多摩湖自転車歩行者道へ 1984(昭和59)年、井ノ頭通りの終点は吉祥寺南町1丁目から武蔵野市関前5丁目に変更されました。JR中央線武蔵境駅の北方、五日市街道に突き当たる地点です。 すぐ近くには境浄水場があり、これによって、井ノ頭通りのルートは地中の水路である境和田堀線により近くなったわけですが、その延長線上、境浄水場と村山貯水池のあいだにも村山境線と呼ばれる導水路が埋設されています。 その地表に設けられた道路が、「多摩湖自転車歩行者道」です。 以前は「多摩湖自転車道」と呼ばれていましたが、2018年に名称変更されました。その名の通り、多摩湖こと村山貯水池に至る緑道で、気持ちよくサイクリングや散歩、ジョギングを楽しむことができるため、地元住民や自転車愛好家など多くの人たちに親しまれています。途中、交差点を迂回したり、一般道と合流する箇所はあるものの、西武多摩湖線の武蔵大和駅近くまでおよそ10kmに渡って一直線の道が伸びているのが特徴です。 のどかな田園風景や緑豊かな公園、昔の郵便局舎や古民家が復元された「小平ふるさと村」(小平市天神町)、並走する西武線電車などを眺めながら水路上の直線コースを終え、狭山丘陵の坂道を登っていくと、和田堀給水所の水源である村山貯水池の湖畔に到着します。 村山貯水池は東京の水がめとして1916(大正5)年に着工され、1927(昭和2)年に完成した人造湖で、西の上貯水池と東の下貯水池に分かれています。 村山下第一取水塔。左に見えるのは1973年に増設された村山下第二取水塔。奥に見える白い建築物はメットライフドーム(西武ドーム)(画像:野村宏平) 観光地としても人気のエリアで、下貯水池の南東に浮かぶ村山下第一取水塔(1925年完成)は「日本一美しい取水塔」といわれています。北岸は富士山の絶景スポットとしても有名です。 また、多摩湖自転車歩行者道沿道の水道関連施設としては、東村山浄水場(東村山市美住町)もあります。こちらは、かつて西新宿にあった淀橋浄水場の機能を受け継いだ東京都最大の浄水場で、1960年に通水が開始されました。現在、村山貯水池から和田堀給水所に至る水はここを経由しています。
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