一見、無気力だが実は革命的――70年代を駆け抜けた女優「秋吉久美子」とは何だったのか
1972年のデビュー以来、第一線で活躍を続ける女優・秋吉久美子。そんな彼女の魅力について、9月刊行『秋吉久美子 調書』から作家の中川右介さんが読み解きます。「一つの時代は、時代を代表する俳優を持つべき」 ちょうど50年前の1970(昭和45)年11月、作家・三島由紀夫は壮絶な死を遂げました。三島は小説だけでなく、多くの戯曲も書き、文学座などの劇団とも深い関係を持ち、その戯曲は、いまも上演されています。 その三島由紀夫と関係が深かったのが、歌舞伎役者・6代目中村歌右衛門です。三島は1959年に歌右衛門の写真集を編集し、その本の「序説」は歌右衛門論であるだけでなく、俳優論にもなっていますが、こう始まります。 「一つの時代は、時代を代表する俳優を持つべきである」 三島は、歌右衛門こそがその時代を代表する俳優だと論を展開していきます。 70年代を代表する女優 三島は1970年に亡くなりました。したがって、70年代を代表する俳優が誰かをこの作家は知りません。でも、私たちは知っています。そのひとりが、秋吉久美子であることを。 2020年9月に刊行された『秋吉久美子 調書』(筑摩書房)は、その秋吉久美子が、映画評論家で監督の樋口尚文氏との対談的なインタビューを受け、それをまとめた本です。 2020年9月刊行の『秋吉久美子 調書』(画像:筑摩書房) 樋口氏はこう書きます。 「秋吉久美子は1970年代を特権的に背負い、反映した、あの時代を象徴することにおいてのみ突出している女優だと思われるかもしれないが、それも誤りである。当時の多くのファンは、秋吉は70年代の青春の代名詞として記憶し続けているかもしれないが、それは厳密ではない。もちろん秋吉は、強烈に70年代的なるものを映してスクリーンに弾けていたし、彼女の人気を起爆させたホットスポットは間違いなくそこにあるのだが、そのフィルモグラフィを直視すれば彼女をそこのみに要約するわけにはいかなくなるのだ」 樋口氏は、秋吉久美子は「要約」されることから「逃走」してきた女優だと言います。その逃走の記録が、この本だと言っていいかもしれません。 要約を拒む女優の本を要約することは不可能なのですが、試みましょう。 本の巻頭には秋吉久美子自身の「はじめに」があります。その一部が帯にも引用されています。 「これは『調書』だからセンチメンタルではいけない。読み物だからつまらなくてはいけない。45年余の女優人生。私は見た。私は挑んだ。そして私は語った。ウソはない。調書だから」 これだけでも秋吉久美子が自分を客観視し、その言動を自分で解説できる人だと分かります。 この本は秋吉久美子論であるだけでなく、俳優という職業がどういうもので、俳優はどういう意識で演じているかを、客観と主観をないまぜにして語っている本なのです。芸能人の自伝的な本のみならず、俳優論、演技論、映画論として成立しています。 福島の文学少女が女優になるまで福島の文学少女が女優になるまで とは言え、『秋吉久美子 調書』は、まずはオーソドックスに、生い立ちから始まります。 秋吉久美子は1954(昭和29)年に生まれ、福島県で育ちました。幼少期から本が好きで、「小さい頃から梶山季之とか川上宗薫、推理小説、時代小説から官能小説まで」何でも読む少女で、高校では文芸部の部長となり、小説も書いていました。 1972年、高校3年の夏休みに、映画『旅の重さ』(斎藤耕一監督)に出演し、これが秋吉久美子のデビュー作となります。主役を公募していると知って、応募したのです。 『旅の重さ』では主役には選ばれませんでしたが、脇役として出ました。撮影は、受験勉強で忙しいはずの高3の夏休み。それが終わった後、「受験を控えた男の子たちのアイドルだったので、みんなから会いたいと言われて、1日に三つも四つも時間を区切ってはお話相手になってあげていました」という状況で、もともと成績はよかったのですが、大学受験に失敗します。 高校3年生としては、激動の半年です。秋吉久美子は浪人生になるのですが、予備校へは高校の制服を着て行かなければならないこともあって、それを罰ゲームだと感じてさぼるようになります。そんなある日、アングラ芝居を見に行き、これが芸能界へ本格的に入るきっかけとなりました。 DVD『旅の重さ』(画像:松竹) 1973年、今度は主役を射止めました。『十六才の戦争』(松本俊夫監督)です。しかしこの映画は公開が遅れ、1976年、秋吉久美子が有名になってから公開されます。その後もテレビドラマなどに小さな役で出た後、1974年3月公開の『赤ちょうちん』(藤田敏八監督)で主演して、注目を集めました。 藤田監督は続いて同年8月公開の『妹』、11月公開の『バージンブルース』と、1年間に3作の秋吉久美子をヒロインとして映画を撮りました。ストーリーはそれぞれ異なりますが、後に藤田敏八の「秋吉久美子3部作」と呼ばれます。 1970年代前半の東京に暮らす、どちらかというと貧しい若い女性が主人公でした。この3部作で、秋吉久美子は時代のヒロインとなるのです。 3部作には70年代の東京が冷凍保存されている3部作には70年代の東京が冷凍保存されている 3部作は、いずれも製作当時の「現在の東京」を舞台にしています。そこで暮らす貧しい男女が主人公なので東京観光をするわけではなく、名所旧跡のシーンはありません。 最初の『赤ちょうちん』で秋吉久美子が演じるのは、熊本出身の17歳。スーパーのレジ係をして働いていました。 DVD『赤ちょうちん』(画像:日活) 彼女は青年と出会い、彼の住む古いアパートに一緒に暮らし、妊娠し、結婚します。そしてふたりは、そのたびに引っ越します。少しずつ広い部屋にはなるのですが、引っ越しばかりしているので貯金ができず、貧しいまま。 何度も引っ越すので、映画には当時の東京各地がフィルムには焼き付けられています。『妹』は地下鉄東西線の早稲田駅から物語が始まります。終電でこの駅に来たのが秋吉久美子で、彼女の実家が早稲田にあり、兄が暮らしているという設定。 最後の『バージンブルース』の秋吉久美子は岡山出身の予備校生で、寮に暮らしています。3部作のなかでは、一番経済的には恵まれているのですが、ストレス解消のイタズラとして、寮生たちと集団万引をして、それが発覚。そのため寮に帰れなくなり、岡山へ帰ります。 映画のなかで秋吉久美子が暮らしているのは、どこも近代的・都会的なマンションではありませんし、彼女が出会う人たちも、ほとんどが貧しい人たち。なかには犯罪スレスレのことをしている人もいます。 藤田監督には「1970年代なかばの、華やかではない東京を記録しよう」という意図はなかったでしょうが、半世紀近くが過ぎたいま、これらの映画を改めて見ると、当時の東京のもうひとつの顔――「貧しさ」「暗さ」「暴力」が冷凍保存されているのです。 では、福島で暮らしていた秋吉久美子にとって、東京とはどんなものだったのでしょう。叔母が高円寺に住んでいたので、子ども時代から家族と東京へ来ていました。 「数寄屋橋の不二家などで食事したりはしてました。ペコちゃんのカラフルな看板が思い出されます。その頃から、銀座なんかに来るとやっぱり自分の居場所はここかなあとは思っていました」 しかし彼女自身の思いとは別として、秋吉久美子は華やかな銀座とは対極の下町や郊外で、何を考えているのか分からない、希望も絶望もない、少女なのか大人の女なのかも分からない、とらえどころのないキャラクターとして登場したのです。 そういう分析不可能な人物が生きていけるのは、他人のことを気にしない大都会しかありません。ですから、3部作の舞台は東京以外には考えられず、その意味において、秋吉久美子は紛れもなく、「1970年代なかばの東京の女」だったのです。 「シラケ世代」「元祖プッツン女優」と呼ばれて「シラケ世代」「元祖プッツン女優」と呼ばれて 1970年代前半は、日本映画がどん底にあった時代でした。 社会全体もドル・ショック、オイル・ショックなどで高度経済成長が終わって不況下にありましたが、映画会社は観客動員が減り続け、各社とも合理化を迫られていました。 そんななか大映は1971年に倒産し、日活もロマンポルノ路線へと転換します。「若者」も、60年代末に盛り上がった学生運動が、69年の東大安田講堂の陥落、72年の連合赤軍事件によって退潮し、「熱い時代」は終わりました。 闘争に敗れた若者たちは、組織に組み込まれてサラリーマンとして生きていく者、アウトローとして生きていく者、そのどちらでもない者と、さまざまな生き方をしていきました。 秋吉久美子は、学生運動で闘争に燃え、敗北して燃え尽きた世代ではなく、その次、燃えることすらなかった世代です。この世代は、「シラケ世代」と呼ばれ、秋吉久美子は、その「シラケ世代」の象徴となったのです。 DVD『妹』(画像:日活) 彼女自身がどうであったかは別として、彼女が映画で演じた役は、朝ドラのヒロインのような「夢と希望を抱いて元気ハツラツとしている女の子」ではありませんでした。愛くるしい笑顔なのですが、それゆえに、何を考えているのか、何をやりたいのか、分からない。それでいて、「謎の女」というミステリアスな雰囲気でもない。ある意味で、普通の、どこにでもいる若い女性だったのです。 それは、今風の「自分探しをしている若い女性」とも違いました。「自分探し」は前向きですが、秋吉久美子が演じたのは「自分探し」もしていない。といって過去を懐かしむほど、年をとってもいない。積極的には、何もしないのです。強いて言えば、「何もしない」ことを積極的にしているという、屈折したヒロインでした。 そのヒロイン像に、当時の同世代の女性たちが共感を得て――というストーリーは、秋吉久美子にはありません。彼女を支持したのは同世代の男性たちでした。 脱ぐこともひとつのファッションだという意識革命脱ぐこともひとつのファッションだという意識革命 秋吉久美子は、1979年に、結婚・妊娠を発表する会見で「子どもを卵で産みたい」と言って話題になりました。いまで言う「できちゃった婚」ですが、当時は、芸能人としても珍しいことでした。 このように私生活でも話題を振りまき、その独特な言語感覚による発言は、時に物議を醸しもしたのですが、この本では、女優になってからの私生活については、語られません。 デビューするまでのことは、祖父の生い立ち、両親のなれそめから始まり、どんな少女で何を考えていたのかなど、詳しく語られているので、この調子でこれまでの生涯が語られるのかという予想と期待は、外れるのです。これは、「芸能人の自伝」としては、かなり大胆な、商売のヘタな作り方と言っていいでしょう。 秋吉久美子の生き方は、彼女が若い頃は理解されにくいものでしたが、いまならば、「自立して、自分の意思で生きる、かっこいい女性」として、もてはやされそうです。 凡庸な芸能ライターだったら、そういう秋吉久美子象を再構築し、「女の生き方論」の本として作ったかもしれません。しかし、この本は、映画作家論、映画作家の評伝を何冊も書いてきた、卓越した映画評論家である樋口尚文がインタビューし、構成して書いたことから、「女の生き方論」にはならず、70年代から現在までの映画史を、ひとりの女優の目を通して語る内容になっています。 だからと言って、この本は映画史の本ではありません。ひとりの女優が何を考え、どういう意識で映画に取り組んできたかという格闘の歴史の本なのです。 例えば秋吉久美子は前述の藤田敏八監督の3部作では、ヌードになります。いまも、女優が映画でヌードになると、マスメディアは喜んでそのことを強調して報じますが、秋吉久美子がデビューした当時は、「脱ぐ」ことは、いまよりも「事件性」があったのです。 観客の大半は男性で、彼らが何を求めていたのかはともかく、秋吉は 「脱いでいる本人にはもっとレボリューショナルな気分があったんです。いわば脱ぐこともひとつのファッションなんだという意識革命があって、ただ見世物で脱ぎますというのとはプライドが違っていた」 と語ります。 こういう「意識革命」をする女優が登場したことで、映画はひとつの表現の壁を乗り越えたわけです。 DVD『バージンブルース』(画像:日活) このように、ひとつひとつの映画、ひとつひとつの役について、どういうアプローチで挑んできたかが語られるこの本は、たとえその映画を見ていなくても、演技論あるいは監督の演出論としても、スリリングな内容になっています。 この本を読めば、秋吉久美子が出演した映画を見たくなります。そのいくつかはネット配信で見ることができますが、シネマヴェーラ渋谷(渋谷区円山町)で10月17日(土)から30日(金)まで、「ありのままの久美子」として、秋吉久美子出演作品が集中的に上映されます。
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