プールの聖地「としまえん」 550年前、巨大スライダーの場所にそびえ立っていた意外なものとは?
豊島氏の練馬城があった練馬区の豊島園へ 夏といえばプール、プールといえば「としまえん」(練馬区向山)……ですよね。漢字で書くと豊島園。 そんな豊島園ですが、実は、中世のお城の跡なのです。その名も「練馬城」。城主は豊島氏、つまり、練馬区にある豊島園は、豊島氏の練馬城だったのです。「練馬か豊島かどっちや!」って、突っ込んでよし。 練馬城跡にそびえるハイドロポリス(画像:荻窪圭) 今、豊島といえば池袋のある豊島区ですが、かつては東京23区のうち半分が「武蔵国豊島郡」でした。 そして、平安時代末期頃、秩父を領していた秩父平氏(ちちぶへいし)の子孫が荒川沿いに進出して豊島に土着し、「豊島氏」を名乗ったのです。初期の豊島氏の館があったといわれる場所は、今でも「北区豊島」と地名にその名を残しています。 その豊島氏が室町時代に築いた城のひとつが練馬城で、豊島園は豊島氏にちなんで名づけられたのです。 鷺宮から豊島園へ鎌倉街道を行く そんな、練馬城の跡を訪れてみましょう。もちろん、徒歩1分の「豊島園駅」は使いません。 実は、としまえん前の南北の道は鎌倉街道のひとつだったらしいのです。そんな古道を歩いて、気分を盛り上げて登城しましょう。 スタート地点はほどよく離れた、西武新宿線の鷺ノ宮駅。鷺ノ宮駅の「鷺ノ宮」は駅の南にある鷺宮八幡神社が語源。駅とは妙正寺川を挟んだ位置にあります。 鷺は水辺の鳥ですから、たくさんいたのでしょう。1064(康平7)年、源頼義が鎌倉街道に面した土地に勧請したと伝わっています。源頼義は平安時代後期の武将で源義家の父。都内には源頼義、あるいは源義家が勧請したという神社がたくさんあるので信憑性はアレですが、それほど古い神社なのです。 では鎌倉街道を北上します。バス通りになっていて交通量も多い通りを歩き、「こぶし園入口」の交差点にきたら立ち止まって下さい。交差点の角、南東側に大小2体のお地蔵さまが立っています。このあたりが中野区と練馬区の境界。お地蔵さまは外から悪疫などが入らないよう村の入口に建てられることが多かったのですね。 このお地蔵さまは「願かけ地蔵」。その願のかけ方がなかなか「鬼」で、まず祈りながら小さな方の地蔵を倒します。すると大きな地蔵は、倒された地蔵を起こして貰うために願い事を聞き届けてくれるので、願いが叶ったら倒した地蔵を起こして上げたそうな。現代の価値観からすれば「お地蔵さまを脅迫するなんて」ですが、まあ300年前の話なので深く突っ込まないことに。 練馬区に入ったら良辨塚に注目練馬区に入ったら良辨塚に注目 練馬区に入って北上すると、道は二手に分かれます。右手が練馬城へ向かう道ですが、そちらは狭い生活道としてかろうじて残っている感じなので、通り過ぎないよう注意。 具体的には願かけ地蔵から2つめの信号(中村南三丁目北)の次の細い道を右手にはいります。そして斜めに伸びるゆるやかにカーブした古道を道なりに進むと、左手に、鉄の柵で囲まれた小さな広場があらわれます。 ここは「良辨塚(りょうべんづか)」跡。良辨は南北朝時代、500mほど東にある南蔵院に滞在した僧侶。1357年、ここにお経を収めた筒を埋めた塚を作りました。その経筒(きょうづつ)は江戸時代に掘り出されて南蔵院で保管されていますが、跡地に大きな碑が建てられています。一緒に近隣にあった道標や石仏が集められており、それを見ているだけでも飽きません。 良辨塚とそこに集められた石仏たち(画像:荻窪圭) 街道筋ならではの遺構を確認したところでさらに進みましょう、一部失われていますが、小さな稲荷や不動堂の脇を抜け道筋に沿って進むと、大通りに出ます。 これは千川通り。江戸時代に「千川上水」が通っていた水路の跡です。近くの交差点を迂回して超えます。 さらに進んで西武池袋線の高架をくぐると大きな「目白通り」。ここを渡り、今まで歩いた街道の続きに入ります。歩行者用信号を渡ったら団地前の道を右に曲がり、次を左折する感じです。 あとは緩やかにカーブする道を道なりに歩くのみ。ときどき左手を見ると、左手ががくんと低くなっているのがわかるようになってきます。この谷が練馬城の守りに一役かっていたのです。そうこうしているうちに左手にとしまえんがあらわれます。 練馬城で水攻めにあう?練馬城で水攻めにあう? さあ、としまえんに到着しました。中に入りましょう(入場ゲートの手前までは誰でも入れます)。練馬城があったのは石神井川の南側(つまり川が北側の防御の要でした)。入場ゲートやハイドロポリスがある側です。 実はこの街道と入場ゲートの間、今は平らですが、もともとは深い谷があり、練馬城の東側のお堀でした。それを埋めちゃったのですね。今でもとしまえんの南側は堀の続きだった谷が刻まれてます。 そして練馬城の中心は今の「ハイドロポリス」があるあたり。当時は天守閣なんてありませんが、ハイドロポリスを見上げて「ああ、これが練馬城が進化した姿か」と思って構いません。思うだけなら自由。ハイドロポリスのウォータースライダーを「練馬城を攻めたら水攻めにやられたー」と叫びながら滑り降りてもヘンな人と思われるだけで済むでしょう。 としまえんの入場ゲート。入場ゲート前はかつて谷で城の堀として使われていた(画像:荻窪圭) さてそんな練馬城ですが、あっさり落ちます。時は室町時代の1477(文明9)年。京都では応仁の乱が終わりに向かっている頃、関東では戦乱まっただなかでした。 関東地方は当時、「関東管領(かんれい)」という役職の上杉氏が力を持ってましたが(「管領軍」としましょう)、上杉氏の家臣だった「長尾景春」という人が反乱を起こしたのです(こちらを反乱軍とします)。 なんと豊島氏は反乱軍に加担。管領軍のエースだった「太田道灌(どうかん)」は江戸城から出陣、練馬城を襲い、城と城下に放火します。 それを追って練馬城と石神井城(石神井公園の一角に城跡があります)から豊島軍が進軍し、中野区の沼袋から江古田あたりで合戦がはじまります。そして管領軍の太田道灌が勝利し、豊島氏は石神井城へ退却するも太田道灌の追撃をうけて落城し、豊島氏は滅亡へと向かうわけです。 そんな練馬城ですが、江戸時代には「城山」として伝えられ、やがて、としまえんとして平和な遊園地に変貌を遂げたわけですね。 練馬城跡(としまえん)を楽しんだら、帰りは練馬駅へ歩きましょう。途中、平安時代創建という白山神社へ立ち寄るのがおすすめ。源義家が立ち寄ってケヤキを奉納したと伝えられているのですが、そのうち1本が残っているのです。樹齢は推定900年といいますから、相当な古木。一見の価値有りです。
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