浅草寺の外れにある「お地蔵さん」が見るも無残な形になってるワケ
浅草寺の境内にある銭塚地蔵尊とカンカン地蔵尊の歴史と魅力について、サンポマスターの下関マグロさんが解説します。銭塚地蔵堂に込められた「武士の妻の誇り」 先日、浅草の雷門近くの喫茶店で仕事の打ち合わせをしたのですが、久しぶりに浅草にやってきたという相手は浅草の人通りの多さに驚いていました。たしかに最近は外国人観光客も増えたこともあって、浅草寺にも多くの人々が参拝するようになっています。 雷門から仲見世(みせ)、本堂へ続く道は時に身動きできないほど混雑することも。多くの人は本堂をお参りすると、そのまま「まわれ右」をして再び雷門へ向かいます。 しかし浅草寺の境内にはさまざまなものが祭られているので、個人的には境内をもっと歩いてみてほしいです。中でも筆者(下関マグロ。サンポマスター)がお勧めしたいのは、本堂の左奥にある銭塚地蔵堂(ぜにづかじぞうどう)です。 ずっと工事をしていた銭塚地蔵堂ですが、2019年11月に建て替え工事が終了し、現在はきれいなお堂を目にすることができます。堂内に石の六地蔵尊が安置されていて、その下には江戸時代の貨幣である「寛永通宝」が埋められていると言い伝えられています。銭が埋まっているので、銭塚なんですね。 銭塚地蔵堂の脇にあるカンカン地蔵尊(画像:下関マグロ) お堂の由緒は、江戸時代の享保(きょうほう)年間(1716~1736年)までさかのぼります。 話の主人公は、「山口某」という摂津国有馬郡(現在の兵庫県西宮市)の武士の妻。夫とふたりの子どもとともに貧しく暮らしていましたが、他人からの援助を断って清貧の生活を送っていたそうです。やはり、武士の妻としての誇りがあったのでしょう。 あるとき、子どもたちが庭から多くの寛永通宝を掘り当てました。普通ならば、ラッキーとばかりに使ってしまいそうなものですが、彼女は理由のない金を自分のものにするのを恥と考え、寛永通宝を埋め戻させたそうです。いや、すごいですねぇ。 「塩なめ地蔵」の別名も「塩なめ地蔵」の別名も このような母親に育てられた子どもたちは立派に成長し、家は大層繁栄したといいます。子どもたちは寛永通宝を埋めた場所に地蔵尊を祭りました。それが、現在、西宮市山口町に残る銭塚地蔵尊だそうです。 2019年11月に建てなおされた銭塚地蔵堂。右わきにカンカン地蔵尊がある(画像:下関マグロ) この地蔵尊の御分霊(ごぶんれい。神社の祭神の霊をわけて、他の神社にまつること)を祭ったのが浅草寺の銭塚地蔵堂です。ただ、どのような経緯で御分霊に至ったのかはわかっていないとのこと。 銭塚地蔵尊周辺のエリアは観光客こそ少ないものの、商売繁盛のご利益を求めて祈願する人が絶えません。参拝者は線香、ローソク、塩をお供えしています。特に塩をお供えすることから、「塩なめ地蔵」の別名もあります。 カンカン地蔵尊はなぜ原形をとどめていないのか この銭塚地蔵堂には、もうひとつぜひお参りしていただきたいお地蔵さまいらしゃいます。それがカンカン地蔵尊です。 カンカン地蔵尊という名の由来は、お参りする人が石を打って祈ると「カンカン」という金属音がするからだといいます。筆者が初めてお参りしたときは、そのお姿にかなり衝撃を受けました。 というのも、これまで多くの人がお地蔵さまを削ってしまい、原形をとどめていないのです。その理由は「削った粉を持ち帰ると、お金に困らない」という言い伝えがあったからです。もとは大日如来像と伝えられているそうですが、まったくわかりません。白い塊になっているお姿を見ていると、ご自分の身を削って人々にご利益を与えてこられたのだなと感慨もひとしおでした。 銭塚地蔵堂とカンカン地蔵尊のある場所(画像:(C)Google) カンカン地蔵尊には現在も石が置かれていますが、削ることは当然禁じられています。塩を奉納して祈願すると財福のご利益があるといわれているため、カンカン地蔵にはいつも多くの塩が供えられています。とともに、カンカンという音が響き渡っています。 この音を聞いているだけでも、なんだか癒やされる気持ちになってくるから不思議です。みなさんも機会があったら、ぜひお参りしてみてください。 このほかにもいくつものお地蔵さまが浅草寺境内にはいらっしゃいます。それらを探してみるのもいいのではないでしょうか。
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