96年前に創業、神保町のカレー店「共栄堂」が愛され続ける理由

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96年前に創業、神保町のカレー店「共栄堂」が愛され続ける理由

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小野員裕

フードライター、カレー研究家

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近年、「カレーの街」としても有名になった神田神保町に1923年創業の老舗店「共栄堂」があります。そんな同店の歴史と魅力に迫ります。

創業は大正13年

 神保町の古本屋街の生い立ちは、明治の初め頃に大学へと昇華する各種専門学校が現れ始めたのがきっかけです。それにより、研究者や苦学生らによって安価な古本が取り引きされるようになり、徐々に古本屋街が形成されていきました。しかしその当時、今日のカレー屋街に変貌するなんて、誰が想像したでしょうか。

共栄堂のポークカレー(撮影:ULM編集部)



 共栄堂に出合ったのは学生の頃。不肖ながら私は文学青年で、神保町の古本屋で初版本や絶版本を漁る日々を過ごしていました。お目当ての本が見つかれば、この界隈の「古瀬戸」、「ミロンガ」、「さぼうる」という喫茶店で過ごしたものです。

 ちょいと小銭があれば、神保町名物「いもや」のとんかつか、天丼なのでしょうが、私の場合は決まって「共栄堂」のカレーでした。

 家庭の平凡なカレーから脱皮し、インドカレーの魅力にはまった頃でしたが、ここのカレーはどのジャンルにも属さない味わいで、茶褐色に佇(たたず)む色合いのソースは、トロトロで心地よくネットリと舌に絡み付くうま味。その仄(ほの)かでビターな舌触りは、背伸び盛りの私にとって大人のカレーを感じさせてくれたものです。

 共栄堂のカレーは「スマトラカレー」と称し、戦前に活躍した探検家、伊藤友治郎氏から共栄堂の創業者に伝授されたもの。伊藤氏は大正の末、東京駅近くに「カフェ南国」を開店、当時斬新なカレーなどを提供していましたが、関東大震災により「瓦解」 し、そのまま閉店したようです。その店で提供されていたインドネシア、スマトラ島のカレーの作り方を教わり、共栄堂風にアレンジされて今に至っています。

「うちは洋食屋として大正13(1923)年に創業しましてね、その当時からこのカレーはあったんですが、昭和50年代頃ですか、カレーに特化した店に姿を変えたのは……」

 そう語るのは、ロマンスグレーで男前な3代目店主、宮川氏。

 この界隈で大正期から息づく老舗といえば、須田町の洋食屋「松栄亭」、蕎麦屋「神田まつや」、あんこう鍋の「いせ源」、鳥すきや「ぼたん」。淡路町の居酒屋「みますや」、錦町の蕎麦屋「更科」などで、共栄堂もその老舗に並びます。

 カレーライス自体は「松栄亭」で明治の終わり頃から提供されていたようですが、厳密にカレー専門店としては、共栄堂が日本最古の店と言ってもいいのではないでしょうか。

唯一無二の旨みの正体は?

「それぞれのカレーは一見、同じソースに見えるかもしれませんが、素材に合わせてカレーソースをひとつひとつ仕込んでいるんです」と宮川さん。

共栄堂の看板。店は螺旋階段を下った地下にある(撮影:ULM編集部)



 確かに、どのカレーも褐色でトロトロの風情で同じソースに見えるけれど、それぞれ微妙に味わいが異なるのです。ちなみに、私の一番のお気に入りはポークカレーです。

 その美味しさの秘密は、各種油脂で20種類のスパイスを焙煎し、ジャガイモやニンジン、ニンニク、ショウガを合わせ、ブイヨンで伸ばし煮込む、という作業にあります。ソースのトロトロとした食感は小麦粉ではなく、野菜が解け込んだ自然な粘度なのだそうです。

 特筆は、とにかく注文してからカレーが出てくるのがすこぶる早いこと。だから腹が減って我慢できないときや、仕事の忙しい合間にはホントに重宝します。またサービスで提供されるコーンポタージュ、これも旨いんだな。

 前述の通り、神保町界隈は学生時代によく通った街ですが、30歳の頃に隣町、駿河台にあった出版社に転職してから、さらに神保町との深い関わり合いを持つことになりました。
その当時、インドカレーの「エチオピア」が開店し、この店を起爆剤に神保町はカレーの街として認識されはじめた気がします。確かカレー屋は30数軒ほどしかありませんでしたが、現在は150店舗ほどに増殖しているようです。

 そんな神保町の来し方行く末を大正時代から見守ってきた共栄堂。神保町散策の合間に、インドネシア、スマトラ島の異国情緒たっぷりなカレーをぜひ楽しんでいただきたいものです。

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