東京・武蔵村山にひっそり佇む「四つのミニトンネル」の正体

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東京・武蔵村山にひっそり佇む「四つのミニトンネル」の正体

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内田宗治

フリーライター、地形散歩ライター、鉄道史探訪家

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東京に26ある市のなかで、鉄道が唯一通っていない武蔵村山市。そんな同市には軽便鉄道羽村・山口線の廃線跡があります。地形散歩ライターの内田宗治さんが、その歴史について解説します。

約1kmの間に四つも存在

 東京に26ある市のなかで、鉄道が唯一通っていないのが武蔵村山市です。市内の北部は低い山が連なる多摩丘陵で、その麓にはのどかな里山の光景が広がっています。尾根を越えた先には多摩湖(村山貯水池、東大和市など)と狭山湖(山口貯水池、埼玉県所沢市など)が水をたたえています。武蔵村山市役所から多摩丘陵方面へ7~8分ほど歩くと、「野山北公園自転車道」が道を横切っているのに出会います。

 右手を見ると、小型乗用車がぎりぎり通れそうなほどの狭いトンネルがあり、

「横田トンネル 自転車道」

と書かれています。

横田トンネル(第一号隧道)。ここから四つのトンネルが続く。2021年12月撮影(画像:内田宗治)



 トンネル内へと歩を向けて、この自転車道(徒歩もOK)を進んでみましょう。約1kmの間に100~170m程の長さのトンネルが四つ続き、四つ目の赤坂トンネルを抜けるとあたりは昼も薄暗い林となって自転車道は突然終了。その先、藪のなかの山道を数十m歩くと5番目のトンネル(第五号隧道)の入り口にぶつかり、そこから先は通行止めです。

 横田トンネルまで戻って、逆の方向に進んでみます。緑道が約2.7km続き、こちらも米軍横田基地のすぐ近くまで来た所でぷっつりと途切れています。なんとも不思議な思いにかられる自転車道です。

 始終点が中途半端なこの野山北公園自転車道は、途中の案内板にもあるように、軽便鉄道羽村・山口線の廃線跡です。武蔵村山市内には、かつては鉄道が通じていたわけです。
 この軽便鉄道は、激動の昭和の歴史のなかで、使途が二転三転してきました。現代に至るまで、その経緯を見ていきましょう。

村山貯水池の建設と軽便鉄道の敷設

 明治時代以降、東京の人口は増え続け、1916(大正5)年、東京市民の水がめとして、村山貯水池の建設が始まります。ためる水は約9km先の多摩川の羽村取水堰(せき)で取り入れて、地下に敷設した導水路(導水渠)で流し込むものです。

 1921年、導水路の建設材料を運搬するために導水路に沿って横田トンネル付近まで軽便鉄道が敷設されました。これが軽便鉄道「羽村・山口線」の第1期にあたるものです。導水路は1924年に完成。この軽便鉄道はいったん撤去されました。

軽便鉄道廃線跡の野山北公園自転車道、赤堀トンネル(第二号隧道)。2021年12月撮影(画像:内田宗治)



 村山貯水池はなかが堰堤で仕切られ、下貯水池が1924年、上貯水池が1927(昭和2)年に完成しました。ですがそれでも東京の飲料水をまかなうには足りず、山口貯水池の工事が始められます。

第2期の廃線は1932年頃

 貯水池の築造には大量の砂利などが必要となります。村山貯水池築造の際は、青梅鉄道(現・JR青梅線)小作駅付近の多摩川河川敷で採取して、立川から鉄道省中央線国分寺駅、武蔵水電(現・西武国分寺線)東村山駅、そこから軽便鉄道で運搬しました。しかし、いくつもの鉄道会社を経由することで時間と費用がかかり、工事遅延の原因となっていました。

 山口貯水池築造にあたり、工事発注者の東京市水道局では、東京市直営の軽便鉄道を砂利採掘現場から山口貯水池まで敷設することを決定。軌道を敷く用地としては、都合のいいことに、村山貯水池の導水管建設で使用した軽便鉄道跡が利用でき、さらにそれを山口貯水池まで延長させて運搬することにしました。

 多摩川河川敷の採掘場から近くの台地上まではインクラインでトロッコをあげ、そこから先を軽便鉄道で運びます。これが軽便鉄道羽村・山口線の第2期にあたるもので、1928年に完成し、堰堤工事完了の1932年頃廃線となりました(山口貯水池の完成は1934年)。前述のトンネルもこの時造られています。

1931年頃の横田トンネル。『村山・山口貯水池建設工事写真集』武蔵村山市立歴史民俗資料館編より(画像:内田宗治)

 途中、残堀川を渡る場所に砕石場を設け、そこで石や砂利を破砕、ふるい分けを行って、新たなトロッコへ積み替え運搬しました。現在、野山北公園自転車道が残堀川を渡る傍らの緑地に、砕石施設のコンクリート台座が残されています。

トンネル内に軍需工場をつくる計画があった

 2度目の廃線となったこの軽便鉄道は、太平洋戦争中に再度復活します。1943(昭和18)年6月、村山・山口貯水池にとって重大な情報が在ドイツ武官から報告されました。

 英国空軍機による空襲でカッセルの町郊外の堰堤が破壊され、カッセルの町は洪水状態になり大きな被害を受けたというものです。報告書によれば、爆撃機十数機が低空で飛来し、3000kg級円筒形地雷爆弾を投下、水面で爆発させ水圧により厚さ約8mの鉄筋コンクリート堰堤が破壊されたといいます。

 実は村山・山口貯水池に関して、その前年から500kg爆弾を想定して、堰堤を厚さ1mの無筋コンクリートで保護する計画が策定されていました。さらに強固な防護工事が必要なことが判明し、厚さを増す工事が行われたものの資材不足で完全な防護工事ができず、貯水量を減らして堰堤への水圧を低くして防護力を高める措置も取られました。

 この防護工事のため、1943年夏ごろから約1年間、軽便鉄道羽村・山口線が再整備され資材の運搬が行われています。さらに終戦2か月前の1945年6月、この軽便鉄道跡に4度目のお役目がやってきます。

 それはこれまでとは異なる内容のものでした。トンネル内なら空襲から避けられるということで、トンネル内を軍需工場にするというプランです。主に海軍機のエンジンを制作していた日立航空機立川工場(現・東大和市桜が丘)が、第4号隧道(現・赤坂トンネル)と第5号隧道(現在通行不能)へ疎開してきました。航空機の接合棒やボルト、ナットを作る機械が運び込まれ、約300人で作業する予定でしたが一度も稼働することなく終戦を迎えました。

 トンネルは、空襲を受ければ坑口が土砂で埋まる可能性があり、内部は水がしたたりおちてもきます。ここで働いていたら、どんなにか心細かったことでしょうか。

堰堤から望む多摩湖(村山貯水池)の下貯水池。2015年12月撮影(画像:内田宗治)



 野山北自転車道は現在、主に地元民の生活道路に利用されています。日常生活にふれながら、平和の尊さを実感させてくれる地です。

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