有楽町の由来は「織田信長の弟」って本当? 千代田区サイトにも記載アリ、真相を調べてみた

一流のホテルや映画館、劇場が立ち並ぶ有楽町。そんな同エリアの名前「有楽」の由来とは何でしょうか。これまで数多くの歴史関連雑誌・冊子の編集を手掛けてきた編集プロダクション『ディラナダチ』代表の小林明さんが解説します。


江戸時代の書物から始まった伝説

 関ヶ原の戦いの功績による褒美として、有楽斎は家康から江戸に屋敷を拝領したといわれています。なお屋敷は、現在の銀座・数寄屋橋交差点近くにありました。

 その後、屋敷が失くなり空き地と化したため、空き地を有楽斎にちなんで「有楽原(うらくがはら)」と呼び、ときを経て有楽町の地名となった――これが現在の定説です。有楽町がある千代田区のウェブサイトにも、そう載っています。区の公式見解です。

 この定説のソースは古く、初出は1772(明和9)年に出版された『再校 江戸砂子(えどすなご)』という書物に載っています。簡単にまとめると、

「数寄屋橋御門外、元数寄屋2丁目から3丁目の所に、慶長の頃(1596~1615年)、織田有楽斎の屋敷があった。だが寛永の頃(1624~1644年)には空き地となり、有楽原と呼ばれた」

1772(明和9)年刊『再校 江戸砂子』の問題の箇所。「織田有楽斎の屋敷があったが空き地となり、その後は有楽原と呼ばれた」と記されている(赤枠部)(画像:国立国会図書館)




 徳川家康が関ヶ原に勝ったのが1600年、江戸に幕府を開いたのが1603年。そして、有楽斎が屋敷をもらったのが遅くとも1615年まで。つじつまは一応、合っています。

 さらに、後の時代に出版される幕府編さんの地理誌『御府内備考(ごふないびこう)』が『江戸砂子』のこの一節を引用します。つまり、『江戸砂子』の説は、幕府のお墨付きを得たということにほかなりません。

 こうして、有楽斎の名前が地名に転化したという説は定着していきます。

 ところが、よく調べた結果、「なんか変だぞ」と異議を唱えたのが明治の歴史地理学者・吉田東伍(よしだとうご)でした。吉田の主張を要約すると、こうなります。

1.有楽斎が江戸に屋敷を拝領した事実は確認できない
2.有楽斎は関ヶ原の戦いの後、大和国(現在の奈良県)などに領地を持ち、さらに大坂夏・冬の陣(1614~1615年)には大坂城にいた
3.関ヶ原で徳川に味方としたとはいえ、家康とは距離を置いており、江戸に住む時間はなかったはず
4.隠居後は京都に住んでいる

 つまり、

「有楽斎は江戸に住んでいない。よって屋敷も最初からない。『江戸砂子』はデタラメ」

というのが、吉田の主張の骨子なのです。吉田説を支持する歴史・地理研究家は、今も少なくありません。

屋敷があったとされる場所は町人地?


【画像】60年前の「有楽町」駅前

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