東京駅「八重洲」方面はかつて駅の「裏口」扱いだった!

「日本の玄関口」である東京駅――。そんな東京駅の八重洲口にはかつて橋の架かった外堀があり、駅の「裏口」扱いを受けていました。その歴史について、フリーライターの大居候さんが解説します。


「鉄道会館ビル」の記憶

 八重洲口が「日本橋・京橋方面の繁華街へ通じる玄関口」としての地位を確立するのは戦後になってからでした。

 太平洋戦争後、このエリアで焼土やがれきを除去するため、河川の埋め立てが実施されました。そのなかで、外堀も1948(昭和23)年に埋められることに。

 外堀を埋め立てた後の1954年に完成したのが、2007(平成19)年の閉店まで八重洲口の顔となっていた駅ビル「鉄道会館ビル」でした。

在りし日の鉄道会館ビル。2008年3月撮影(画像:(C)Google)




 外堀の埋め立てが決まった時点で、鉄道会館ビルの建設計画はありませんでした。当初の予定では、八重洲口の駅前広場は現在よりも北側に建設されることになっていました。しかし、それがどういうわけか計画が変わり鉄道会館ビルと国際観光会館が建設されたのです。

 このふたつの建物は、現在「グラントウキョウノースタワー」「グラントウキョウサウスタワー」のある辺りに位置していました。当初の計画通りであれば、八重洲口の駅前広場とロータリーは現在よりも北側にできていたわけです。

 計画が変更になった理由は定かではありませんが、戦災復興のための大規模都市改造を推し進めた安井誠一郎都知事(当時)の意向が強く働いたためではないかと考えられています。

開発の追い風になった東京五輪の開催決定

 ビルを建設したことで八重洲口ににぎわいが生まれたことは事実です。ただ、駅前広場用の用地を確保しなければならなくなりました。その結果、埋め立てられた外堀に沿って建っていた家屋の立ち退きが求められることになったのです。

 当初は難行するかと思われた交渉ですが、東京オリンピックの開催決定が追い風になり、解決に至ります。こうして1963年には八重洲口の駅前広場が整備され、現在の八重洲口の原型は完成したのでした。

1963年頃の東京駅周辺の航空写真(画像:国土地理院)

 こうして生まれた八重洲口ですが、地名としての八重洲があるのは中央区で、1丁目と2丁目があります。

 では、八重洲は中央区固有の地名かといえば、そうではありません。もともと八重洲という地名は、現在の千代田区の区域に存在していたものでした。

 江戸時代には馬場先門近くに「八代洲河岸(やよすがし)」といった地名があり、明治時代になると、1872(明治5)年に麹町区八重洲町1~2丁目が設置。ただ、この八重洲町は丸ノ内口側にありました。前述の外堀に架かっていた橋が八重洲橋と呼ばれたのは、八重洲方面につながる橋だったからです。

いくつものドラマがあった八重洲口


【画像】八重洲口に外堀があった頃の東京駅

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