12月の風物詩「年末ジャンボ宝くじ」 意外と知られていない歴史とは?

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12月の風物詩「年末ジャンボ宝くじ」 意外と知られていない歴史とは?

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マサト

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年末の風物詩といえば、そのひとつは宝くじです。都内の有名売り場には毎年多くの人が並びます。そんな宝くじの歴史について今回は解説します。

宝くじの歴史に迫る

 12月の風物詩はさまざまですが、「年末ジャンボ宝くじ」はそのひとつです。クリスマスケーキや鏡餅のCMとともに、テレビでは毎年のように年末ジャンボ宝くじのCMが流れています。

 年末に限らず、人々にロマンを感じさせる宝くじ。熱心なファンは売り場にもこだわるようで、

・西銀座チャンスセンター(中央区銀座)
・池袋東口西武線駅構内宝くじ売り場(豊島区南池袋)
・宝くじ御徒町駅前センター(台東区上野)

などは、「よく当たる売り場」として紹介されています。

中央区銀座にある西銀座チャンスセンター(画像:写真AC)



 そんな宝くじですが、実は歴史あるレジャーなのをご存じでしょうか? その歴史は、江戸時代までさかのぼります。

江戸時代に流行した「富くじ」

 宝くじの歴史には、寺院や神社が深く関係しています。

 江戸時代、寺社は信仰の場であると同時に、庶民のレジャースポットでもありました。当時、寺社のレジャーとして人気を博していたもののひとつが、後の宝くじの原型といえる「富くじ」です。

富くじ(画像:宝くじ公式サイト)

 富くじのやり方としては、まず現在の宝くじと同じような「富札(とみふだ)」というものを発行します。その後、番号が書かれた木札を箱に入れ、公開でそれを錐(きり)で突くことで抽選していました。

 富くじの起源は摂津国(せっつのくに。現・大阪府)にある、箕面山瀧安寺(みのおさんりゅうあんじ)とされています。この瀧安寺では江戸時代初期、同じような方法で抽選をおこない、当選者に福運のお守りを授けていました。

 しかしお守りを授けるくじから、次第に金銭を与える内容のくじへと変化し、各地に広がっていきます。その後、1692(元禄5)年には徳川幕府から富くじの禁令が出されました。

 その一方で特定の寺社は「修復費用を調達するため」という名目で、金銭授受をともなう富くじの興行を認められています。幕府に許可された富くじは「御免富(ごめんとみ)」と呼ばれ、賞金額が100両におよぶこともありました。

 なかでも有名だったのが、「江戸の三富」といわれた、

・感応寺(現・天王寺。台東区谷中)
・湯島天神(文京区湯島)
・目黒不動(目黒区下目黒)

の三か所における興行です。

 以下、江戸の三富といわれた寺社がどのようなスポットなのかを紹介していきます。訪れることで、日々のお悩みや将来への目標に関するご利益があるかもしれません。

1.感応寺(現・天王寺)

 江戸の三富に数えられた谷中の感応寺は、後に名を変えており、護国山尊重院天王寺(ごこくざんそんちょういんてんのうじ)となっています。

台東区谷中にある天王寺(画像:(C)Google)



 かつて感応寺は、日蓮(にちれん)宗のお寺でした。そして法華経(ほけきょう)を信仰しない者からの布施、あるいはその者たちへの法施などをしない「不受不施派」(ふじゅふせは)という立場をとっていました。

 この不受不施派の立場のために、1698(元禄11)年、感応寺は江戸幕府から「邪宗」とみなされ、存続の危機に立たされます。しかし、改宗して天台宗のお寺となることで、なんとか存続することが決定しました。

 その際、延暦寺(えんりゃくじ)の北方に位置する鞍馬寺が毘沙門天(びしゃもんてん)を祭っていることにならい、寛永寺の北方に位置していたこのお寺でも、毘沙門天像を祭るようになりました。

 こちらの毘沙門天像は「谷中七福神」として信仰を集め、今日まで親しまれています。毘沙門天には、

・皆から愛される福
・長生きする福
・家業が成功する福

など、10種の福があるとされています。興味のある人はお参りに出掛けてみてはいかがでしょうか?

2.湯島天神

 東京メトロ千代田線の湯島駅から、徒歩2分の場所に位置する湯島天満宮。「湯島天神」の名で親しまれ、受験シーズンになるとたくさんの学生でにぎわうことで有名な場所です。

文京区湯島にある湯島天神(画像:写真AC)

 湯島天神は458(雄略天皇2)年創建とされています。祭られている神様は開運・勝運をつかさどる天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)、そして菅原道真です。

 学問の神様としておなじみの菅原道真ですが、牛との縁も深く、湯島天神ではそれを感じることが可能です。

 道真は遺言として、「自分の遺骸を牛にのせて人にひかせずに、その牛の行くところにとどめよ」と残すなど、牛に対する深い慈悲の心をもっていました。こうしたことから、湯島天神の境内には、石造りの牛が鎮座しています。自分の体の悪い部分と同じ部分をなでるとご利益があるとされており、「なで牛」として親しまれています。

 湯島天神は学業だけでなく、健康に気を遣う人にとっても、訪れたい場所といえそうですね。

3.目黒不動

 JR山手線の目黒駅から徒歩20分の場所にある、目黒不動こと「泰叡山護國院瀧泉寺(たいえいざんごこくいん りゅうせんじ)」は、関東最古の不動霊場にして、原不動尊(熊本県)、成田不動尊(千葉県)と並ぶ、日本三大不動のひとつでもあります。

目黒区下目黒にある目黒不動(画像:写真AC)



 江戸中期以降になると不動信仰は盛んになり、目黒不動は多くの参拝客でにぎわいました。訪れているのは庶民だけではありません。農村の立て直しに尽力した二宮尊徳、明治維新の功労者・西郷隆盛、日露戦争の日本海海戦で有名な東郷平八郎など、名だたる人物が参詣しました。

 不動明王には、

・厄よけ
・学業成就
・立身出世

などのご利益があるとされています。

 さらに目黒不動では、水をかけて祈願することで願いがかなうとされている、「水かけ明王」が安置されています。普段と違った願い方ができて、面白いかもしれません。

富くじの廃止、宝くじの誕生

 江戸の三富を中心に流行していた富くじでしたが、1842(天保13)年、「天保の改革」で全面的に禁止されてしまいました。

 理由は、

・興行をおこなう寺社の数が増えて富札が売れなくなってしまったこと
・富くじによって風紀が乱れると懸念されたこと

などが挙げられます。

 この禁令以降、富くじを販売しない期間は長く続き、復活したのは、なんと太平洋戦争末期、1945(昭和20)年のことでした。

 政府は軍事費の調達をはかるため、1等で10万円が当たる富くじ「勝札(かちふだ)」を、1枚10円で発売。しかし抽選日を待たずに終戦となったため、くじの価値はなくなり、「負札(まけふだ)」と呼ばれるようになってしまいました。

 その後、戦後の激しいインフレ防止のため、さらに地方自治体の復興資金調達のためのくじが発売されます。そしてこの頃に使われ始めた名称「宝くじ」が、今日まで続いていくのです。

台東区上野にある宝くじ御徒町駅前センター(画像:(C)Google)

 江戸時代に流行したものの、禁止されてしまった富くじ。そして約100年の時を経て生まれ変わった勝ち札、宝くじ。いずれも人々を突き動かす力をもっていることを、当時の人たちはよく知っていたのでしょう。くじにロマンを求める人間の性は、いつの時代でもそう変わらないようです。

●参考文献
・大石学編『江戸時代のすべてがわかる本』(ナツメ社)

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