明治から令和まで 激動の150年を駆け抜けた「東京庁舎」の歴史
2021年12月16日
知る!TOKYO2021年、東京都庁舎は開庁30周年を迎えました。旧庁舎を含め、その歴史についてフリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。
防火対策に優れた府庁舎
当時、明治の流行でもある文明開化を意識して、最新の建築物にはれんが造りが盛んに取り入れられています。妻木が設計した2代目の東京府庁舎も、2階建てのれんが造りでした。それだけ建築家が西洋を強く意識していたことをうかがわせますが、もうひとつ重要なポイントが防火です。
当時の家屋は木造だったので燃えやすく、火事に弱いという欠点がありました。庁舎建築にれんが造りが採用された背景には、重要な建築物なので焼失を防ぐという防火対策も含まれていました。
府庁舎に使用したれんがは、東京集治監(しゅうちかん。囚人を拘禁していた施設)と日本煉瓦(れんが)製造から調達しています。東京集治監は銀座煉瓦街のプロジェクトでもれんがを供給しています。もうひとつの日本煉瓦製造は2021年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一が立ち上げた企業で、東京駅に使われた赤れんがも日本煉瓦製造が製造したものです。
当時の大工はれんがを積んで建物をつくるスキルもノウハウもありませんでした。そのため、渋沢は土木用達組(現・大成建設)や清水満之助商店(現・清水建設)に声をかけて、府庁舎は施工にこぎ着けています。
こうして西洋風の東京府庁舎が完成しますが、府庁舎には東京府のみならず1889年に発足した東京市の役所も同居しました。当初、東京府と東京市が同居していた方が事務の連絡・調整がスムーズになると考えられていたからです。
しかし、歳月とともに東京府や東京市の役割が増えていき、庁舎は手狭になりました。そのため、分庁舎や別館を新増設していきます。それらの建物は丸の内では収まりきらなくなり、東京府・東京市の庁舎は大手町や芝公園などにも分散されて建設されたのです。
そこまで分庁舎や別館を建設しても、膨大な事務作業に支障をきたすようになりました。また、別々の自治体が同じ庁舎で作業をすることにも支障をきたすことになり、東京市は東京府から独立した庁舎の建設を計画。1933(昭和8)年、月島4号地と呼ばれる埋め立て地に市庁舎を建設することを決定します。

しかし、月島4号地の埋め立て計画が順調に進まなかったこともあり、東京市庁舎は実現に至りませんでした。そして、1943年には政府が戦時体制の強化を目的に東京府と東京市を強引に合併させます。府と市が合併して東京都が誕生。東京市が消滅したことで、市庁舎の建設計画は白紙撤回されたのです。
東京都は旧府庁舎を使い続けましたが、1945年に一部の建物が空襲で焼失。近隣の日本赤十字社が辛うじて焼失を免れたため、日本赤十字社に間借りする形で業務を続けました。
戦後、東京都は損壊した庁舎を再建することが急務になります。しかし、連合国軍総司令部(GHQ)の目もあって自分たちの判断だけで庁舎を建設することはかないません。それでも、1950年には都議会議事堂がようやく完成。以降、少しずつ庁舎は再建されていきます。都議会議事堂の後に完成した第1本庁舎は、建築家の丹下健三がデザインを担当しました。
おすすめ

New Article
新着記事
Weekly Ranking
ランキング
- 知る!
TOKYO - お出かけ
- ライフ
- オリジナル
漫画