浅草駅とともに70年 旅客の荷物を運び続けた「最後の赤帽」をご存じか

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浅草駅とともに70年 旅客の荷物を運び続けた「最後の赤帽」をご存じか

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昼間たかし

ルポライター、著作家

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かつて東京のターミナル駅構内には必ず、旅客の荷物を運ぶ「赤帽」がいました。その歴史について、ルポライターの昼間たかしさんが解説します。

125年前に誕生

 かつて東京のターミナル駅構内には必ず、旅客の荷物を運ぶ「赤帽」がいました。今では軽トラックを使った同名の運送業者をイメージする人がほとんどですが、以前はこの職業を指していました。ちなみに運送業者の由来も駅の赤帽ですが、ほとんど知られていません。

東武浅草駅(画像:写真AC)



 赤帽は、日本の鉄道の誕生とともに生まれました。

 最初の赤帽は、1896(明治29)年に関西鉄道(明治期の私鉄会社。名古屋~大阪間に有力な路線網を持っていた)の駅で

「荷物運搬夫」

として誕生。その後、主要駅に常駐するようになりました。そのとき、目印として赤い帽子をかぶっていたことから赤帽と呼ばれるようになったといわれています。

 赤帽はなぜ必要だったのでしょうか?

 それは、今ほど便利に荷物を運べなかったからです。現代では旅行や引っ越しの際、宅配便などで重い荷物を運べます。旅行先でお土産をたくさん買っても、宅配便にお願いすれば、帰宅後すぐに受け取れます。しかしかつては、多くの荷物を抱えて移動しなくてはなりませんでした。

 当時は国鉄の「チッキ」という輸送サービスがありましたが、運んでくれるのは駅から駅まで。そのため、乗り継ぎ区間で重い荷物を運んでくれる赤帽は欠かせない職業だったのです。

 夜行列車の多かった時代は、早朝から深夜まで、駅のホームから駅の外まで、重い荷物を抱えて往復する赤帽が当たり前に見られました。なかでも大道具やカメラをたくさん運ぶ映画のロケ隊や、ドラムセットやスピーカーを抱えて駅にやってくる楽団は上客でした。

最末期の日給は約5000円

 しかし、そんな赤帽の需要は次第に失われていきます。

 大きな変化のひとつは、新幹線の開業(1964年)です。これを境に旅行の移動時間は短縮され、乗客の抱える荷物の量も減っていきます。さらに宅配便のネットワークが全国に張り巡らされるようになると、需要はさらに少なくなりました。

 赤帽は2000(平成12)年の時点で、全国にわずか13人。配置駅もJRでは、

・東京駅
・上野駅
・名古屋駅
・京都駅

だけで、最も多い東京駅でも5人でした(『朝日新聞』2000年4月20日付夕刊)。また、赤帽に荷物の運搬を頼む人もほとんどいなくなっていました。

東京駅(画像:写真AC)



 ちなみに赤帽は鉄道会社の職員ではなく、鉄道会社と契約を結ぶ関係でした。東京駅の場合は

「東京駅構内手廻(てまわ)り品運搬組合」

という名称で、1年ごとにJRと営業契約を結び、売り上げを人数で分ける日給制。最末期の運び賃は300~400円で、1日の収入は約5000円でした。

 そんな東京駅の赤帽ですが、2001年に最長老となる70歳のスタッフが引退を決意したことで、全員が退職。同年3月31日でその歴史に幕を閉じました。その後、最後まで残っていた岡山駅の赤帽が2006年に引退。時刻表からも赤帽の配置駅の表記は消え、日本の赤帽は消滅したとされていました。

 しかしその後も、東京には少しの間、赤帽の歴史が続いていたのです。それが、東武浅草駅にいた赤帽でした。

最後に残った赤帽の人生

 その人は小森次郞さんといいます。赤帽が姿を消していった1970年代、全国の私鉄で最後に残った赤帽として、小森さんは週刊誌から取材を受けています。

「小森さんが赤帽の仕事を始めたのは東武浅草駅開業から1年足らずの昭和6年5月、17歳の時。以来「お得意さんに迷惑をかけたくない」と、盆も正月も、日曜日さえも休まず、乗降客の荷物を運び続けている。私鉄の再三の運賃値上げにも限らず、小森さんの運搬代金は荷物1個50円」(『平凡パンチ』1976年2月16日号)

荷物を運ぶ人のイメージ(画像:写真AC)



 当時で61歳と記されていますから、そろそろ引退を考える年齢です。しかし小森さんは、21世紀になっても赤帽を続けていたのです。

「小森さんの定位置は駅正面口入り口に置いてあるいす。70年間変わっていない。ここから、100~200メートル離れたホームまでお客の荷物を運ぶ。かつてはもう1人いたが47年に廃業し、小森さん一人になった。小森さんは東武鉄道の関連会社と契約した個人事業者。自営業者と同じ立場だ。ここで午前9時30分から午後6時まで、ひたすら客を待つ。でも、利用があるのは月に10~20個。一個の運搬手数料は200円。月数千円にしかならない。(中略)今では、デパートで買い過ぎた客の荷物を運ぶくらい。昨年から江戸川区内にある娘さんの家に同居し、悠々自適の生活を選ぶこともできる。だが、去りがたい駅のぬくもりがある。通学で駅を利用していた学生時代から知っている娘さんが、赤ん坊を連れて浅草に来た。「お土産を買う間この子を預かって」。「泣かれて困りましたけどね」という笑顔は、お客に信頼されている誇りにも見える。小森さんは「年齢と体力のこともあり家族には、『辞めるならいつでも辞めて』といわれるんだけど、いすに座ると元気になるんですよ」と笑う」(『東京新聞』2001年8月12日付朝刊)

 当時の年齢は86歳。その後の足取りをたどってみたところ、その姿が2006(平成18)年まで見られたと、個人ブログなどに記されていました。それが正しければ、なんと90歳を過ぎるまで赤帽を続けていたことになります。

東武鉄道に聞いてみたところ……

 小森さんは、いったいいつまで赤帽を続けていたのでしょうか? 既に存命ではなくても、足取りを知りたいと思い、筆者(昼間たかし)は東武鉄道の広報部に尋ねてみました。

 しかし、その頃まで仕事をしていた姿を見た人は確かにいるものの、残念ながら、いつまで続けていたのかは確認できませんでした。

『~浅草駅開業90周年記念写真展~浅草万華鏡』(画像:東武博物館)

 東武博物館(墨田区東向島)では現在、浅草駅開業90周年を記念した『~浅草駅開業90周年記念写真展~浅草万華鏡』を2022年1月10日まで開催しています。ここに展示されている写真のなかには、2001年に撮影された小森さんの姿があります。

 東武浅草駅と70年あまり人生をともにし、旅客を地道に支え続けた小森さん――その足取りが気になる人は、きっと筆者だけではないはずです。

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