東京の駅ビルが「おしゃれ」に変わったのはいつ頃? 意外過ぎる歴史に驚いた

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東京の駅ビルが「おしゃれ」に変わったのはいつ頃? 意外過ぎる歴史に驚いた

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弘中新一

鉄道ライター

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現在、東京の駅ビルにはおしゃれなイメージがありますが、わずか30年前まで様子は異なっていました。鉄道ライターの弘中新一さんがその道のりを解説します。

おしゃれな駅ビル登場は国分寺から

 東京のターミナル駅の駅ビルはどこも店舗が充実しています。グルメからファッションまで、その時代に合ったテナントが入居しているため、駅から出なくても十分事足りるほどです。駅ビルが本格的におしゃれになったのは、国鉄の分割民営化後、1980年代後半からです。その先鞭(せんべん)をつけたのが、東京都国分寺市にある国分寺駅の国分寺エル(現・セレオ国分寺)でした。

国分寺市南町にある駅ビル「セレオ国分寺」(画像:(C)Google)



 この駅ビルがオープンしたのは、1989(平成元)年3月1日です。JR東日本などが出資し、オープン当時で地下2階、地上9階の売り場面積は計2万平方メートル。オープン当時は、丸井国分寺店をキーテナントに、専門店69店舗と飲食17店舗が入居していました。

注目の背景にあった中央線文化

 中央線沿線の駅ビル建設は、1980年代前半から始まっていました。

 1981(昭和56)年には荻窪駅のルミネ荻窪、1982年には立川駅のWILL(現・ルミネ立川)、1983年には八王子駅のナウ(現・セレオ八王子)がオープン。そうしたなかで、前述の国分寺エルが注目を集めたのは理由がありました。

立川市曙町にある駅ビル「ルミネ立川」(画像:(C)Google)

 国分寺はもともと、吉祥寺・高円寺と並んで「三寺(さんでら)」と呼ばれる中央線文化の中心地でした。

 駅の周りには多くのジャズ喫茶と古本屋。常に若者であふれ返っていました。なかには大学卒業後も就職せずにブラブラしたり、店を開いて住み着いたりする若者もいて、独特の文化が根付いていました。

 世界的なベストセラー作家・村上春樹(1949年生まれ)が作家になる以前、国分寺でジャズ喫茶「ピーター・キャット」を営んでいたことはよく知られています。

新たなスーパーマーケット誕生で人流激変

 国分寺エルが誕生する以前の国分寺は、若者にとって住みやすいものの、決して便利とはいい難い街でした。

 今では駅前の再開発が進んでいますが、当時の国分寺はもっと雑然としていました。とりわけにぎわいの中心だったのが、北口の駅前通り・大学通り・西通りで、パチンコ屋やゲームセンター、喫茶店などが軒を連ねていました。

1975年頃の国分寺駅周辺の様子(左)と現在(画像:国土地理院)



 学生向けの店は充実している一方、スーパーマーケットは駅前に小さめの西友と長崎屋がある程度。ほかに商業施設はなく、買い物には少々不便な街でした。

 そんな街の「裏口」である南口に誕生したのが、国分寺エルです。地下には丸井の食品スーパーマーケット「食遊館」が出店、従来の人流は激変しました。

 ここで目玉になったのが、単身者や核家族を対象にした少量パックの総菜です。今では当たり前の存在ですが、総菜を少量パックで売るスタイルは当時まだ珍しく、瞬く間に地域住民の需要を満たし始めました。

1990年誕生、アトレ四谷の衝撃

 一方、国分寺エルには丸井のお家芸といえるDCブランドやインポートブランドのファッション、さらにはディオールやサンローランまで入居していました。ひなびた学生街に、いきなりハイブランドが登場した格好です。

 これまで新宿まで行って買っていたものが地元でも買えるようになったことで、駅ビルに対する期待が塗り替えられました。

アトレ四谷開業前、1985年頃の四ツ谷駅周辺の様子(左)と現在(画像:国土地理院)

 続いてJRが取り組んだのは、1990(平成2)年9月に誕生したアトレ四谷です。同施設は、首都圏のJRターミナル駅の象徴ともいえる「アトレ」の1号店となりました。

 JR東日本とその100%子会社の東京圏駅ビル開発(現・アトレ)が取り組んだ、JR東日本グループ直営の駅ビル商業施設の第1号。

 店舗面積は1600平方メートル、テナント数15店と、決して大きくはありませんでしたが、東京の人たちに与えたインパクトは極めて大きいものでした。なぜなら、それまでの駅ビルは国鉄以来の武骨なイメージがあったからです。

おしゃれな駅ビルの歴史は約30年にすぎない

 アトレ四谷は、旧来のイメージを吹き飛ばすような先進的なデザインでした。外はモノトーンのファッションビル風。入り口のホールの上は吹き抜けになっていて、らせん階段まで……当時ではとても駅ビルとは思えない設計だったのです。

 参考までに、当時の様子を見てみましょう。

「「自然の中の“館”(やかた)のイメージです」(東京圏駅ビル開発・工藤国利営業部担当次長)という建物のデザインは、階段や回廊の手すりに木を使ったり、石張りの床を用いるなど、自然の素材を生かした。また丸い柱を使い、吹き抜け空間(約百五十平方メートル)を作るなど、クラシックで高級なムードもあふれている。「周辺は落ち着いた高級住宅地の中に、グレードの高いマンションも増えており、女性が雰囲気を求めて集まる代官山や西麻布の持つ街のイメージに近い」ととらえ、「リッチでファッショナブルな女性をメーン・ターゲットにしたい」という」(『読売新聞』1990年9月29日付朝刊)

 それまでJRの駅ビルは、ビルを賃貸して収益をあげるスタイルだったため、JRはあくまでビルの大家という立ち位置でした。アトレ四谷はこの方針を転換し、JRと子会社が直営で企画、管理運営するものでした。

新宿区四谷にある駅ビル「アトレ四谷」(画像:(C)Google)



 開業当初のJRの熱量は高く、1階には基礎化粧品店「シャン ド エルブ」が、上階にはイタリア料理店が直営店舗としてありました。

 JR東日本はこの後、大井町の駅ビルの開発に着手。首都圏の駅ビルは従来のイメージを一新していくことになります。

 今ではごく当たり前になったおしゃれな駅ビルですが、その歴史はまだ30年ちょっとというのは何だか意外です。

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