日本最大級の繁華街とともに発展 浅草のすき焼き名店「ちんや」が辿った軌跡とは

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日本最大級の繁華街とともに発展 浅草のすき焼き名店「ちんや」が辿った軌跡とは

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近代食文化研究会

食文化史研究家

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流行最先端の地だった浅草でも、とりわけ有名な存在だったすき焼き「ちんや」その歴史について、食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。

流行最先端の地だった浅草

 レトロな雰囲気で人気の観光地、浅草。意外かもしれませんが、戦前の浅草は、レトロどころか流行最先端の地でした。

 銀座がまだ現在ほど栄えておらず、新宿、池袋、渋谷が寂れた片田舎であった明治時代から、浅草は日本最大級の繁華街として全国に名をとどろかせていたのです。

ちんやのすき焼き(画像:ちんや)



 その浅草を代表する店が、すき焼きの「ちんや」。浅草とともに千変万化していったちんやの歴史は、浅草の流行の歴史そのものであったのです。

将軍家の獣医師から発展

 風俗評論家・植原路郎(ろろう)著『明治語録』によると、ちんやの先祖は徳川2代目将軍秀忠の獣医師として、馬の健康管理を行っていたとのこと。

 その縁かどうか、ペットショップとして犬の狆(ちん)を大奥に販売するようになったそうです。これが「ちんや」という名前の由来になります。

大奥の狆を描いた楊洲周延『千代田の大奥 狆のくるひ』(画像:国立国会図書館)

 日本画家・伊藤晴雨(せいう)の「ちんやの故来」(『食通 昭和12年1月号』)によると、狆は足の先がふたつに割れているところが鳥に似ていたため、犬が禁止された大奥において「鳥扱い」され特別に飼育が許されていたとのこと。

 ところが、明治維新とともに大奥は廃止。大手販売先を失ったちんやは、講釈場(こうしゃくば)という現在でいう寄席のような店を開きます。

 浅草は、芝居に始まって浅草オペラ、レビュー、活動写真と、娯楽分野でも日本の最先端を走っていましたが、まさにその浅草にふさわしいエンターテインメント店へと変身したのです。

食堂からすき焼き店、カフェーなどに進出

 浅草はまた、大衆的な外食店がひしめく食道楽の街でもありました。

大衆的な外食店が並んでいた浅草食傷新道。『大東京寫眞帖』より(画像:国立国会図書館)



 ちんやもこの流れに乗り、食堂へと転業します。そして、明治時代半ばから大正時代にかけて牛鍋(すき焼き)が流行すると、高級すき焼き店に衣替え。

「「ちんや」は其の始めから、高級な行き方であつた。又(また)宣傳(せんでん)もよくしたので、明治の末期頃から大正にかけてとても人氣があつた」(石角春之助『浅草経済学』)

 すき焼きで成功したちんやは、明治時代末から流行した、女給をおいた西洋料理店カフェーのブームにも乗り、「ちんやバー」というカフェーを出店します。ちなみに、浅草のすき焼き老舗「今半」も、「カフェー・イマハン」を出店していました。

 明治時代末に浅草の「来々軒」が大衆中華ブームを起こすと、中華料理店も出店。

 こうしてちんやは、貪欲に流行を追い続ける街、浅草を象徴するような店になっていったのです。

交通機関の変化により浅草が変化

 浅草を日本有数の繁華街へと成長させたのは、交通手段の発展でした。

女給が評判をよびブームとなったカフェー。『大東京寫眞帖』より(画像:国立国会図書館)

 明治時代に鉄道馬車、路面電車、昭和の初めには地下鉄が浅草に開通。東京市全域から気軽に浅草に通うことができるようになります。路面電車の時代においては、浅草は交通網の中心にあったのです。

 ところが路面電車が縮小され、普通鉄道の時代になると、古い人口密集地で地上に鉄道を通しにくい浅草へのアクセスが不便になります。浅草にかわり、新宿、池袋、渋谷といった鉄道ターミナル駅のある街に、人の流れは移っていきました。

 こうして浅草はやや時代に取り残された街になりましたが、やがてそのレトロな雰囲気が再評価され、インバウンドなどで人気の街になります。

 ちんやもまた、浅草の変化に追随するように、最先端の流行を追いかける店から、風格のある落ち着いた老舗へと、その印象を変えていったのです。

 コロナ禍で休業していたちんやですが、今年、ハードロック・カフェやカプリチョーザなどを展開するWDI(港区六本木)がブランドを継承、発展させていくこととなりました。

「変わる」ことこそがちんやの伝統。新しい体制下で、新しい発展期を迎えることを願ってやみません。

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