かつて町田市に「地下鉄建設計画」があった! 平成初期の壮大な夢はなぜ破れたのか

町田市に地下鉄を建設する――かつてそんな壮大な計画があったことを、皆さんはご存じでしょうか。その背景と結末について、鉄道ライターの弘中新一さんが解説します。


町田市が抱えていた大きな問題

 JRと小田急の町田駅は現在隣接していますが、かつてJRの町田駅は現在より横浜方面にありました。駅名もJR(当時は国鉄)が原町田駅。小田急が新原町田駅でした。

現在の町田駅周辺の地図(左)と、1967(昭和42)年に発行された地図。町田駅の位置が移動しているのがわかる(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)

 そんな街の再開発に着手したのが、1970(昭和45)年に就任した大下勝正市長です。大下市政で進められた再開発では、国鉄の原町田駅が小田急側に移転し、駅名も町田駅に改称、統一されました。

 しかし再開発が進んだものの、町田市には大きな問題がありました。それは交通渋滞です。

 町田市では通勤・通学に両線の町田駅を利用する市民が極めて多く、ラッシュ時には駅周辺の渋滞がひどい状態でした。また駅周辺以外でも急速に都市化が進んだため、あちこちで渋滞が発生していました。

 町田市の『広報まちだ』1987(昭和62)年11月21日号に掲載された市民意識調査の結果によれば、市に要望する事業のうち、交通渋滞の解消が「団地地域12地区のうち10地区で1位となっており、中でも山崎団地、藤の台団地、境川住宅、木曽・町田木曽住宅では約80%」と記されています。

 これを受けて、町田市では駅に隣接する町田バスセンターを拡充。さらにバスを定時運行させるため、バス専用レーンの設置を実施しました。車線のひとつを9時から23時まで専用レーンとする、全国でも初の試みでした。

「昭和63年7月1日午前9時、お中元商戦まっただ中、市民待望の「バス専用レーン」が警視庁白バイの先導で開通した。また、沿道には所轄警察官による指導体制のもと大きな混乱もなく第1日目をスタートした。(中略)その後も通行区分の徹底を指導するために一週間にわたり交通警察官が配置され、路上駐車の指導取り締まりが行われ、順調なすべりだしとなった」(『交通渋滞解消へ“町田の試み”』町田市都市計画課 1989年9月)

 残念ながら、バス定時運行のための施策は一定の成果をみたものの、完全に渋滞を解消することはできませんでした。理由は、依然として自家用車を利用する市民が多かったためです。そこでさらなる抜本的な渋滞解消策として浮上したのが、地下鉄建設計画だったというわけです。

総事業費約1000億円という予算規模


【画像】60年前の「町田」を見る

画像ギャラリー

/wp-content/uploads/2021/11/211118_tetsudo_05-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/11/211118_tetsudo_06-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/11/211118_tetsudo_07-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/11/211118_tetsudo_08-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/11/211118_tetsudo_09-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/11/211118_tetsudo_01-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/11/211118_tetsudo_03-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/11/211118_tetsudo_02-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/11/211118_tetsudo_04-150x150.jpg

New Article

新着記事

Weekly Ranking

ランキング

  • 知る!
    TOKYO
  • お出かけ
  • ライフ
  • オリジナル
    漫画