目黒不動尊前にひっそり佇む「ミステリアスな塚」の正体

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目黒不動尊前にひっそり佇む「ミステリアスな塚」の正体

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県庁坂のぼる

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東京の五色不動として知られる目黒不動尊。その門前にある「白井権八・小紫の比翼塚」はいったいどのような塚なのでしょうか。フリーライターの県庁坂のぼるさんが解説します。

比翼塚とは何か

 目黒不動尊の通称で知られる瀧泉寺(目黒区下目黒)。その仁王門前に「白井権八・小紫の比翼塚」があります。

目黒区下目黒にある「白井権八・小紫の比翼塚」(画像:(C)Google)



 比翼塚とは、愛し合って死んだ男女を一緒に葬った塚のことです。有名どころでは、愛媛県松山市にある木梨軽皇子(きなしのかるのおうじ)・軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)兄妹の比翼塚、府中市と小金井市をまたぐ多磨霊園にある坂田山心中事件(1932年)の男女の比翼塚などがあります。

 さて、白井権八・小紫の比翼塚の

・白井権八
・小紫

とはいったい誰でしょうか。

 権八は平井権八といい、1655(明暦元)年に因幡鳥取藩士・平井庄右衛門の子どもとして生まれました。幼い頃から剣の腕で鳴らしていましたが、数え18歳のとき、叔父とも同僚ともいわれる本庄助太夫(須藤助太夫とも)を殺して、江戸に出奔します。

 剣の腕だけでなく美少年だった権八は、素性を隠して忍藩阿部家へ臨時の徒士として雇われます。そうして世を忍んで暮らしていたある日、吉原に登楼した藩主が旗本に因縁を付けられているのを助け、その手柄で正規に取り立てられることに。

 しかし運命は非情なもの。これに前後して出会ったのが、吉原にあった三浦屋の抱え・小紫でした。なじみとなったふたりですが、小紫は太夫。一夜をともにする揚げ代には途方もないお金が必要です。正規に取り立てられても権八は徒士。給金で賄えるはずもありませんでした。

 どうにか小紫に会いたいと、権八は辻斬り(自分の腕を試すために、武士が通行人を斬ること)を始めました。その数、なんと130人とも。恋に狂ったとはいえ、とんでもない悪人。主に吉原に出掛ける客の懐を狙っていたようです。

虚無僧になった権八

 埼玉県鴻巣市や熊谷市に、権八延命地蔵があります。これは江戸へ逃亡する途中、金に困った権八が通りすがりの商人を殺して金を奪ったとき、路傍の地蔵に「今の事は他言してくれるな」と拝んだといわれているものです。

 真偽はわかりませんが、そのような伝説が作られるほどの大事件だったわけです。ちなみに、権八の願いに対して地蔵は

「吾(わ)れは言はぬが 汝(なれ)言うな」

と答えたという話もあります。

 ともあれ、悪の栄えた試しなどありません。ことが露見した権八は逃亡を図り、仁王門の辺りにあった普化宗(ふけしゅう。禅宗の一派)の東晶寺にかくまわれました。

 ここで改心した権八は死ぬ前にもう一度両親に会おうと、虚無僧になって鳥取に帰ります。しかし両親は既に死んでいました。かくして、観念した権八は江戸に戻って自首し、鈴ヶ森で処刑されたのです。ときに1679(延宝7)年のことでした。

目黒区下目黒にある「白井権八・小紫の比翼塚」(画像:(C)Google)



 権八が死んだことを知った小紫は東昌寺の権八の墓前で自害します。これを哀れんだ僧侶がふたりの亡きがらを葬り、前述の比翼塚を建てたというわけです。

歌舞伎の題材になった権八

 この物語はのちに脚色されて、『浮世柄比翼稲妻』という歌舞伎の題材に取り上げられます。

 白塗りの美少年・白井権八が、駕籠(かご)かきに「江戸市中まで」と頼み、鈴ヶ森へとさしかかります。強盗まがいの駕籠かきたちは、ここで権八を下ろして金品を奪おうとするも、それを次々と切り捨てる権八。

 そこに通りがかったのが、侠客(きょうかく)・幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)。

「お若えの、お待ちなせえやし」

と問われ、

「待てとお止めなされしは、拙者がことでござるかな」

と答えるのは、よく知られた名場面です。もちろん、すべてフィクションです。

実はさほど歴史がなかった?

 白井権八・小紫の比翼塚をインターネットで調べると、東昌寺につくられたものの、廃寺になったために移転し、現在地に来たとあります。それが1962(昭和37)年ということくらいで、さらに深掘りした情報は見当たりませんでした。

 ところが『目黒の近代史を古老にきく2』(目黒区守屋教育会館、1985年)には、その詳細な経緯が記されています。ここに収録されている座談会に出席している下目黒在住の米穀商(座談会当時は79歳)がこう語っています。

「あれは徳川時代から続いた角伊勢(料理屋の名前)さんの持ち物で花柳界で世話をしたんですが、色々あって私んとこで買って不動さまの入り口のとこへ持って行って、その後仁王門前に移したわけです」

松川二郞『三都花街めぐり』(画像:国立国会図書館デジタルコレクション)



 お寺からお寺へとずっと引き継がれているものかと思えば、個人が買って今の場所に移ったということ…………これは驚きです。さらに調べると、松川二郞『三都花街めぐり』(誠文堂、1932年)に、こうありました。

「角伊勢の邸内にある「小紫権八比翼塚」といふもの、これは名物と云って好いか名所といふべきかを知らぬが、花街名物としては是(これ)以上気の利いたものは無からう」

 いったいどういう経緯で米穀商が買ったのでしょうか――。記録では「色々あって」としか語られていません。彼から経緯を聞いたことのあるご家族が存命なら、一度取材してみたいです。

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