京王線・代田橋駅近くで静かに佇む「巨大コロシアム」の正体
2021年10月24日
知る!TOKYO京王線・代田橋~明大前間の車窓を眺めていると「古代の要塞」のような建物が突如現れます。これはいったい何でしょうか。ライターの野村宏平さんが解説します。
和田堀給水所の「副産物」だった井ノ頭通り
第1次水道拡張事業によって境浄水場と和田堀浄水池のあいだに、境和田堀線と呼ばれる導水路と送水路(導水は浄水処理前の原水を浄水場に送ること、送水は浄水処理された水を配水拠点に送ること)が設けられたわけですが、1937(昭和12)年、その埋設地を道路として整備したのが現在の井ノ頭通りです。
当初は単に「水道道路」と呼ばれていましたが、1938年、荻窪の邸宅からこの道を通って議会に通っていた内閣総理大臣・近衛文麿が「井の頭街道」と命名しました。
ちなみに当時、近衛が住んでいたのは、元首相の西園寺(さいおんじ)公望によって荻外荘(てきがいそう)と名付けられた別荘です。本邸は目白にありましたが、近衛は荻外荘が気に入り、ここに住みつづけたといいます。

そのときに建てられた井の頭街道の石碑が甲州街道と交わる松原交差点の北側、和泉水圧調整所の前(杉並区和泉2)にたたずんでいますが、このあたりは、玉川上水とその新水路の分水点にもなっており、かつては「水道横丁」と呼ばれていました。
その名は近くのバス停にいまも残されています。なお現在は、玉川上水新水路の上に造られた西新宿~和泉2丁目間の道路(都道431号角筈和泉町線)が水道道路と呼ばれています。
給水所近くにクランク・急カーブがあるワケ
井の頭街道の範囲は当初、和田堀給水所から吉祥寺駅の南側(吉祥寺南町1)までとされていましたが、東京オリンピックを翌年にひかえた1963(昭和38)年、東京都は渋谷駅近く(渋谷区宇田川町。現在の西武渋谷店A館とB館のあいだ)から和田堀給水所に至る東側の区間(和田堀水道路)を追加し、「井ノ頭通り」と改称しました。
その際、和田堀給水所の東側と北側を通る道路も井ノ頭通りに組み込まれたため、給水所の敷地をクランクと急カーブで迂回(うかい)する不自然な道筋になってしまいました。

ドライバーからすれば、和田堀給水所は井ノ頭通りの行く手をふさぎ、スムーズな走行をはばむ元凶のような存在に思えるかもしれませんが、そもそも和田堀給水所があったからこそ生まれた道路が井ノ頭通りです。和田堀給水所がなければここに水路が設けられることはなく、井ノ頭通りも造られていなかったでしょう。
現在、この付近は道幅が狭い上、京王線の踏切もあるため渋滞が発生しがちですが、将来的には、給水所の南側に道路を移設してクランクと急カーブを解消し、幅員も拡張する計画が立てられています。
これが完成して京王線も高架化すれば、井ノ頭通りの交通事情は大きく変わることでしょう。
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