米軍施設から「モデル都市」へと大変身! 大規模団地「光が丘」の苦難と現在

東京都の大規模団地のひとつとして知られる練馬区「光が丘」。そんな同エリアが完成するまでの知られざる困難について、フリーライターの真砂町金助さんが解説します。


明るい未来が待っていたはずが……

 このエリアは、人口が膨張していた当時の東京で有望な開発地域でした。なにしろ、交通の便は抜群です。入居が開始された1983(昭和58)年4月時点で、最寄り駅は東武東上線の下赤塚駅。光が丘パークタウンの入り口からは徒歩6分。

 さらに同年6月には、地下鉄有楽町線が延伸し徒歩3分の営団赤塚駅(現・地下鉄赤塚駅)が新たな最寄り駅となっています。池袋までは乗り換え無しで約15分。有楽町までも約30分の好立地です。

 加えて、返還時点では既に都営12号線(現・大江戸線)の計画も進んでいました。都営12号線は都市計画が始まった段階で既に建設計画が始動しており、ゆくゆくは団地の中央部分のショッピングモールに隣接したところに、新宿に直結する環状地下鉄の駅ができるということで、発展は確実として輝いていました。

1975年頃の練馬区「光が丘」(画像:国土地理院)




 未来への夢が広がるなか、1973年にグラントハイツは返還されましたが、ここで問題が起こります。肝心の開発計画がまとまらなかったのです。

 問題になったのは、住宅用地と公園などの公共用地をどう配分するかでした。東京都と住宅公団では、公園などの公共施設を整備するとともに、1万5~6000戸規模の住宅を建設することを予定していました。

 ところが練馬区を中心とした地域では、住宅の戸数を減らして

・公園用地の拡充
・公共施設のさらなる整備

が要求されていたのです。

問題となった公共サービス低下

 問題の背景にあったのは、住民の増加によって練馬区の支出が大幅に増えることの危惧でした。

『朝日新聞』1976年1月26日付朝刊によると、練馬区の想定では団地の完成で、4万人の人口増加を見込んでいました。これによる税収の増加は年間2~3億円。対して、小学校の拡充などで支出は年間20億円近く増えると見込まれていました。

 工場やオフィスと異なり、団地ができて人口が増えても住民税程度です。高度成長期以降、東京都では各地で大規模団地の開発が進んでいましたが、多くの自治体では住民の急増による公共サービスの低下が問題となっていました。

現在の練馬区「光が丘」(画像:(C)Google)

 そうしたなかで、近隣の大規模団地である高島平団地をはるかにしのぐ光が丘の開発は、不安視する向きもあったようです。

 この後、開発計画は住宅需要の変化も受けて、当初の2万3000戸から最終的に1万2000戸にまで縮小して進められます(『光が丘新聞』1983年2月10日付)。

一転「21世紀のモデル都市」に


【画像】終戦間もない「光が丘」

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