米軍施設から「モデル都市」へと大変身! 大規模団地「光が丘」の苦難と現在

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米軍施設から「モデル都市」へと大変身! 大規模団地「光が丘」の苦難と現在

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真砂町金助

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東京都の大規模団地のひとつとして知られる練馬区「光が丘」。そんな同エリアが完成するまでの知られざる困難について、フリーライターの真砂町金助さんが解説します。

光が丘の開発が難行した理由

 大江戸線の利用者にとって光が丘は聞き慣れた地名であり、練馬区北部に位置する大規模団地を中心とした住宅地です。

練馬区「光が丘」(画像:(C)Google)



 もともとは武蔵野の山林だったこの地域は、太平洋戦争中に陸軍が成増飛行場を設置。戦後、米軍の家族住宅であるグラントハイツが作られた後に米軍から返還され、団地と公園が造成されたことはよく知られています。

 しかし返還後、その開発の実現にあたって、極めて困難な出来事があったことはあまり知られていません。今では東京都の大規模団地のひとつとしてよく知られている光が丘の開発が難行した理由――それは、あまりに土地が広かったことにありました。

 もともと、武蔵野の山林地帯だった現在の光が丘。戦前には、都心を囲む環状緑地帯の一部として整備することが予定されていました。ところが太平洋戦争の発生により予定は変更、半ば強制的な買収によって成増飛行場が建設されます。

 戦後、成増飛行場は廃止されますが、これを接収した連合軍はアメリカ空軍の家族宿舎を建設し整備を進めます。1960年代になると、東京都などによる返還の要請が実施され、1973(昭和48)年には全面返還が実現します。

 この全面返還を前に、東京都などでは跡地の利用計画を策定し、大規模な都市型公園と団地の建設を決定します。これを受けて返還に先立ち、1972年には

・東京都
・練馬区
・板橋区
・日本住宅公団(現在のUR都市機構)
・東京都住宅供給公社

による「グラントハイツ跡地開発計画会議」発足し、都市計画が進められます。

明るい未来が待っていたはずが……

 このエリアは、人口が膨張していた当時の東京で有望な開発地域でした。なにしろ、交通の便は抜群です。入居が開始された1983(昭和58)年4月時点で、最寄り駅は東武東上線の下赤塚駅。光が丘パークタウンの入り口からは徒歩6分。

 さらに同年6月には、地下鉄有楽町線が延伸し徒歩3分の営団赤塚駅(現・地下鉄赤塚駅)が新たな最寄り駅となっています。池袋までは乗り換え無しで約15分。有楽町までも約30分の好立地です。

 加えて、返還時点では既に都営12号線(現・大江戸線)の計画も進んでいました。都営12号線は都市計画が始まった段階で既に建設計画が始動しており、ゆくゆくは団地の中央部分のショッピングモールに隣接したところに、新宿に直結する環状地下鉄の駅ができるということで、発展は確実として輝いていました。

1975年頃の練馬区「光が丘」(画像:国土地理院)



 未来への夢が広がるなか、1973年にグラントハイツは返還されましたが、ここで問題が起こります。肝心の開発計画がまとまらなかったのです。

 問題になったのは、住宅用地と公園などの公共用地をどう配分するかでした。東京都と住宅公団では、公園などの公共施設を整備するとともに、1万5~6000戸規模の住宅を建設することを予定していました。

 ところが練馬区を中心とした地域では、住宅の戸数を減らして

・公園用地の拡充
・公共施設のさらなる整備

が要求されていたのです。

問題となった公共サービス低下

 問題の背景にあったのは、住民の増加によって練馬区の支出が大幅に増えることの危惧でした。

『朝日新聞』1976年1月26日付朝刊によると、練馬区の想定では団地の完成で、4万人の人口増加を見込んでいました。これによる税収の増加は年間2~3億円。対して、小学校の拡充などで支出は年間20億円近く増えると見込まれていました。

 工場やオフィスと異なり、団地ができて人口が増えても住民税程度です。高度成長期以降、東京都では各地で大規模団地の開発が進んでいましたが、多くの自治体では住民の急増による公共サービスの低下が問題となっていました。

現在の練馬区「光が丘」(画像:(C)Google)

 そうしたなかで、近隣の大規模団地である高島平団地をはるかにしのぐ光が丘の開発は、不安視する向きもあったようです。

 この後、開発計画は住宅需要の変化も受けて、当初の2万3000戸から最終的に1万2000戸にまで縮小して進められます(『光が丘新聞』1983年2月10日付)。

一転「21世紀のモデル都市」に

 そんな不安の声もある一方、光が丘は注目を集める団地となりました。

 その第一の理由は設備が優れていたことです。完全に白紙の状態から都市計画を実施できる利点を生かし、効率的な公共施設の配置に加えて、当時は最先端だった

・光ファイバーケーブルを使った管理
・清掃工場の廃熱を使った暖房、給湯システム

など「21世紀のモデル都市」とも称される設備が整っていました。結果、第1期の分譲募集時には倍率が10倍にもなっています。

 こうして、紆余(うよ)曲折を経ながらも1983(昭和58)年以降、光が丘の人口は着実に伸びていきます。ただひとつ問題だったのは、都営12号線の開通が遅れていたことでした。

 都市計画が始まった直後の1974年には西新宿(現・都庁前駅)~高松町(現・光が丘駅)間で免許が取得されていますが、その後オイルショックの影響で、一時は計画が凍結される事態もあったからです。

 その後計画は再開され、1991(平成3)年には光が丘~練馬間が開業、1997年12月に新宿駅まで延伸したことで都心へと直結する地下鉄が完成しました。

現在の練馬区「光が丘」(画像:国土地理院)



 それまで10年あまりの間、住民の多くが利用する駅は営団赤塚駅でした。自宅から駅までは自転車を利用する人が多く、通勤通学時間帯には大量の自転車が団地内を走っていたことを覚えている人も多いかも知れません。

 今では自転車の少なくなった感じのある光が丘一帯。これも開発が進んだ結果といえるでしょう。

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