「奥の細道」だけじゃない! 東京で見る「松尾芭蕉」の俳人的軌跡

現在の俳句のもととなった「俳諧」をなりわいとした松尾芭蕉。そんな芭蕉に関連する都内スポットについて紹介します。


深川への移住と「芭蕉稲荷神社」

 1677(延宝5)~1678年ごろ、芭蕉は俳諧の世界で師匠にあたる宗匠(そうしょう)として認められ、プロの俳諧師となっています。

 そして1680年、37歳のときに深川の庵に移住。翌年、門下の弟子・李下(りか)から芭蕉の株を贈られ、これにあやかって自らの俳号も「芭蕉」としました。この芭蕉庵があったとされている場所には、現在「芭蕉稲荷神社」(江東区常盤)が建っています。

江東区常盤にある「芭蕉稲荷神社」(画像:(C)Google)

 芭蕉が亡くなった後、芭蕉庵は武家屋敷となり、幕末から明治にかけて消失してしまいました。さらに1917(大正6)年には高潮水害も発生。当然、芭蕉庵の位置がわかる状態ではありません。

 しかしこの水害後、芭蕉が愛好していたとされる石製のカエルが出土。そこで地元の人たちはこの地を芭蕉庵の跡地とし、祠(ほこら)に石製のカエルを祭るようになりました。境内には芭蕉庵跡の碑や芭蕉の句碑があり、当時をしのぶことができます。

 ちなみに芭蕉の句・紀行文には有名なものが多数ありますが、そのほとんどは芭蕉を名乗るようになった後の業績です。だとするとこの庵は、芭蕉の創作に不可欠な「精神的支柱」と呼べる存在だったのかもしれませんね。

芭蕉の作風に大きく貢献「臨川寺」

 深川に移り住んだ芭蕉を語るうえで欠かせないのが、芭蕉庵(とされている場所)から徒歩10分ほどの場所にある草庵(そうあん)と、仏頂禅師なる人物との出会いです。仏頂禅師の説く、「生死も愛憎も虚であり実である」というような禅の教えに、芭蕉は感銘を受けました。

 この仏頂禅師との交流によって、芭蕉の作風に禅のテイストが少なからず影響するようになったとされています。これが今に至るまで評価されている、深みのある精神性を感じられる世界観へとつながっているのでしょう。そういう面では、芭蕉と仏頂禅師との出会いには大きな意義があったといえます。

 この草庵は仏頂禅師が幕府に願い出たことによって、1713(正徳3)年、瑞甕山臨川寺(ずいおうざん りんせんじ)という山号寺号を許可されました。

江東区清澄にある「瑞甕山臨川寺」(画像:(C)Google)

 臨川寺(江東区清澄)の堂内には芭蕉の木像があります。大きさは50㎝ほどで、キリリとした顔つきが印象的です。ただしもともと伝来していた像は、1923(大正12)年の関東大震災で焼失。現在見られる像は、1988(昭和63)年に復元されたものです。また「芭蕉由緒の碑」など、芭蕉ゆかりの地であることを示す石碑も残されています。

「奥の細道」はじまりの地、採荼庵(さいとあん)


【画像】松尾芭蕉の関連施設

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