「奥の細道」だけじゃない! 東京で見る「松尾芭蕉」の俳人的軌跡

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「奥の細道」だけじゃない! 東京で見る「松尾芭蕉」の俳人的軌跡

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シュウ

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現在の俳句のもととなった「俳諧」をなりわいとした松尾芭蕉。そんな芭蕉に関連する都内スポットについて紹介します。

上水改修への従事と「関口芭蕉庵」

 江戸時代の俳人・松尾芭蕉は、現在の俳句のもととなった「俳諧」をなりわいとした人物です。

「古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音」の句や、東北・北陸などを巡って書いた「奥の細道」は有名なので知っている人も多いでしょう。

 そんな芭蕉には江戸で過ごした時期があり、その面影を現在の東京で見ることができます。

 今回は当時の芭蕉の様子や、東京の芭蕉関連スポットを紹介していきます。

上水改修への従事と「関口芭蕉庵」

 伊賀上野(現在の三重県)に生まれた芭蕉。1656(明暦2)年、13歳のときに父が亡くなった数年後、藤堂藩の伊賀国侍大将・藤堂新七郎家の跡取りである良忠に仕えることになります。芭蕉は武家奉公をしながら俳諧に取り組むものの、1666(寛文6)年に主君の良忠が若くして亡くなると、間もなく藤堂家を退いたとされています。

 やがて芭蕉は江戸へ出て俳諧師になることを決意。初めて江戸へ出たのは1672年、29歳のときのことでした。

 2度目の江戸入りの後、1677(延宝5)年から1680年まで、芭蕉は現在の文京区関口辺りに居住することになります。当時、かつて仕えていた藤堂家が、幕府の命令によって神田上水の改修工事をおこなっており、芭蕉もこの事業に参加していたのです。

文京区関口にある「関口芭蕉庵」(画像:(C)Google)



 芭蕉が住んでいた場所は、「関口芭蕉庵」(文京区関口)として今も見ることができます。永青文庫や椿山荘など文化的施設に囲まれた場所に位置する関口芭蕉庵。敷地内には芭蕉の木像を祭る「芭蕉堂」のほか、いちょうの大木や竹林、「ひょうたん池」などがあり、自然の景観を楽しめるようになっています。

 芭蕉庵の建造物は昭和時代に焼失。現在は庵があったとされる場所に、管理室が設けられています。こちらでは「奥の細道」関連資料や古地図などを見学できます。

深川への移住と「芭蕉稲荷神社」

 1677(延宝5)~1678年ごろ、芭蕉は俳諧の世界で師匠にあたる宗匠(そうしょう)として認められ、プロの俳諧師となっています。

 そして1680年、37歳のときに深川の庵に移住。翌年、門下の弟子・李下(りか)から芭蕉の株を贈られ、これにあやかって自らの俳号も「芭蕉」としました。この芭蕉庵があったとされている場所には、現在「芭蕉稲荷神社」(江東区常盤)が建っています。

江東区常盤にある「芭蕉稲荷神社」(画像:(C)Google)



 芭蕉が亡くなった後、芭蕉庵は武家屋敷となり、幕末から明治にかけて消失してしまいました。さらに1917(大正6)年には高潮水害も発生。当然、芭蕉庵の位置がわかる状態ではありません。

 しかしこの水害後、芭蕉が愛好していたとされる石製のカエルが出土。そこで地元の人たちはこの地を芭蕉庵の跡地とし、祠(ほこら)に石製のカエルを祭るようになりました。境内には芭蕉庵跡の碑や芭蕉の句碑があり、当時をしのぶことができます。

 ちなみに芭蕉の句・紀行文には有名なものが多数ありますが、そのほとんどは芭蕉を名乗るようになった後の業績です。だとするとこの庵は、芭蕉の創作に不可欠な「精神的支柱」と呼べる存在だったのかもしれませんね。

芭蕉の作風に大きく貢献「臨川寺」

 深川に移り住んだ芭蕉を語るうえで欠かせないのが、芭蕉庵(とされている場所)から徒歩10分ほどの場所にある草庵(そうあん)と、仏頂禅師なる人物との出会いです。仏頂禅師の説く、「生死も愛憎も虚であり実である」というような禅の教えに、芭蕉は感銘を受けました。

 この仏頂禅師との交流によって、芭蕉の作風に禅のテイストが少なからず影響するようになったとされています。これが今に至るまで評価されている、深みのある精神性を感じられる世界観へとつながっているのでしょう。そういう面では、芭蕉と仏頂禅師との出会いには大きな意義があったといえます。

 この草庵は仏頂禅師が幕府に願い出たことによって、1713(正徳3)年、瑞甕山臨川寺(ずいおうざん りんせんじ)という山号寺号を許可されました。

江東区清澄にある「瑞甕山臨川寺」(画像:(C)Google)

 臨川寺(江東区清澄)の堂内には芭蕉の木像があります。大きさは50㎝ほどで、キリリとした顔つきが印象的です。ただしもともと伝来していた像は、1923(大正12)年の関東大震災で焼失。現在見られる像は、1988(昭和63)年に復元されたものです。また「芭蕉由緒の碑」など、芭蕉ゆかりの地であることを示す石碑も残されています。

「奥の細道」はじまりの地、採荼庵(さいとあん)

 1689(元禄2)年の2月末、芭蕉はそれまでの庵から南へ1kmほどの場所にある「採荼庵(さいとあん)」に移ります。

 この採荼庵は、芭蕉の門人・杉山杉風(すぎやま さんぷう)の別荘です。杉風は幕府御用の魚問屋を営む人物で、芭蕉の経済的支援者、いわゆるパトロン的存在でした。

 そして約1か月後、芭蕉は門人の曾良(そら)を伴って旅へと出発しました。奥州北陸を経由し、美濃大垣へ、そこから伊勢を目指し船出をするという長旅です。その行程は約2400km、半年ほどかかるものでした。この旅の経験をもとにして創作したのが、有名な「奥の細道」です。このとき「夏草や兵共が夢の跡」「五月雨をあつめて早し最上川」など、有名な歌が多く詠まれました。

江東区深川にある「採荼庵跡」(画像:(C)Google)



「奥の細道」の旅の出発点となった採荼庵は、現在「採荼庵跡」(江東区深川)として見ることができます。場所は、仙台堀川にかかる海辺橋の南端あたりです。採荼庵跡では、旅姿でぬれ縁に腰掛けた状態の芭蕉像が設置されています。堂々たるたたずまいで、いままさに出発しようとしている瞬間を切り取ったかのようです。

 また近辺の海辺橋から清澄橋の間の護岸は、「芭蕉俳句の散歩道」として知られています。「奥の細道」の代表的な句が書かれた高札が立てられているので、風流な言葉とともに散策を楽しんでみてはいかがでしょうか?

 このように都内には、松尾芭蕉ゆかりのスポットがいくつもあります。各地を旅して作品を生んでいた芭蕉ですが、江戸に滞在する時間もしっかりあったというわけですね。涼しくなって余裕が生まれるこれからの季節、江戸時代の文化と東京とのかかわりに目を向けてみるのもいいかもしれません。

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