【すぎやま氏 追悼】ドラクエのテーマ曲がいつまでも私たちの耳に残り続ける理由

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【すぎやま氏 追悼】ドラクエのテーマ曲がいつまでも私たちの耳に残り続ける理由

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星野正子

20世紀研究家

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ドラゴンクエストの音楽の作曲者として世界に知られる、すぎやまこういちさんが9月30日(木)に90歳で死去したことが発表されました。コアなゲーマーとしても知られたすぎやまさんについて、20世紀研究家の星野正子さんが解説します。

ドラクエ以外も名曲がたくさん

 スクウェア・エニックス(新宿区新宿)の公式サイト内『ドラクエ・パラダイス』で、作曲家のすぎやまこういちさんが9月30日(木)に90歳で死去したことが発表されました。

社会現象まで巻き起こしたファミコンの金字塔的ソフト『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』(画像:スクウェア・エニックス)



 すぎやまこういちさんの代表的な仕事といえば、『ドラゴンクエスト』で使われた500曲以上の楽曲です。その遺作も、現在制作中の『ドラゴンクエストXII 選ばれし運命の炎』の楽曲でした。

 ドラゴンクエスト(以下、ドラクエ)の楽曲は多くの世代が口ずさめます。そんな楽曲が生まれたのは、すぎやまさんがゲーム音楽「も」手がける作曲家として、膨大なバックグラウンドを持っていたからです。

 すぎやまさんが手がけた有名な楽曲といえば、

・恋のフーガ(ザ・ピーナッツ、1967年)
・亜麻色の髪の乙女(ヴィレッジ・シンガーズ、1968年)
・学生街の喫茶店(ガロ、1972年)

辺りでしょうか。

 さらに特撮では『帰ってきたウルトラマン』の主題歌、『ゴジラvsビオランテ』の楽曲なども。われわれは人生のさまざまなところで、すぎやまさんの音楽に遭遇していたことを改めて感じます。決してドラクエだけではないのです。

 そんなすぎやまさんの自称は

「(レコードの)B面の王者」

でした。

 前出の「学生街の喫茶店」のように、もともとシングルのB面として発売されたものが次第に人気になり、長く売れたのです。「亜麻色の髪の乙女」も、のちに島谷ひとみさんが歌ってオリコンのランキング入り。ザ・タイガースの「花の首飾り」も、井上陽水さんのカバーで再ヒットしたことで知られています。

 この息の長い曲を生み出す才能こそが、1986(昭和61)年の発売以来、ドラクエの作曲者として信頼を置かれてきた源泉といえるでしょう。

父親はクラシック音楽の愛好家

 そんなすぎやまさんは1931(昭和6)年、東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)に生まれました。父親は東京帝国大学薬学部卒業後、昭和薬科大学で教鞭(きょうべん)をとっており、のちに厚生省や防衛庁の技官を務めています。

1932(昭和7)年に発行された地図。下谷区の記載がある(画像:国土地理院)



 父親はクラシック音楽の愛好家で、それがすぎやまさんの音楽人生に影響を与えるわけですが、その愛好家ぶりは度を超していました。戦後、疎開先から東京に戻ってきたとき、父親は焼け残った自宅にあった反物をレコード屋に持ち込み、物々交換でレコードを手に入れていたほど。

 当然、終戦直後の東京は大変な食糧難が続いていました。お金があればまず食べ物。お金がなければ、家財道具をなんとか米に変えて空腹を満たすことを考える人ばかりです。そんななかでクラシック音楽に慣れ親しんだことが、すぎやまさんの作曲家としての才能に深みを与えたのです。

 当時の手回し蓄音機は低音が聞こえにくいため、歌いながら聞いていたといいますから、本当にクラシック音楽が好きで、もっと理解したいという意欲を持っていたことがわかります。

すぎやまさんと文化豊かな東京

 すぎやまさんが作曲家として大成するまでの人との出会いは、多くの人材が住む大都会・東京ならではです。

 疎開から帰ってきた後に編入した東京都立武蔵中学校(現・東京都立武蔵丘高等学校)で出会ったのは、青島幸男(タレント、東京都知事)と砂田実(テレビプロデューサー)。進学した成蹊高等学校で活動を休止していたオーケストラを再開させると、成蹊中学校にいた服部克久(作曲家)がやってきたのです。

 地方の若者が身を立てることを志したとき、まず考えるのが上京です。すぎやまさんのこの出会いを見ていると、「人材の宝庫」としての東京のすごさを再認識します。

 その後、すぎやまさんは東京大学に合格。卒業後は文化放送に入社し、音楽で糧を得る道を切り開いていきます。東京大学卒のエリートであることは間違いありませんが、音楽大学卒でないことは驚きです(ピアノができなかったため)。

 文化放送に入社したのも、高校時代に作曲した「子供のためのバレエ『迷子の青虫さん』」を文化放送の芸能部長だった有坂愛彦さんが気に入ったからです。

子どものためのバレエ「迷子の青虫さん」(画像:キングレコード)

 その業績とは裏腹に、すぎやまさんは音楽大学から一歩一歩階段を上っていくのではなく、むしろ「横入」のスタイルで、人生を進めていったわけです。高校時代に作曲した曲を文化放送の部長が耳にして、入社を誘いに来る……そんな出会いは東京でなければありえません。

 改めて、すぎやまさんの人生には東京に生まれて、育って、暮らしてよかったという側面があるといえます。

コアなゲーマーだったすぎやまさん

 さて、すぎやまさんはエニックス(現・スクウェア・エニックス)のパソコンゲーム『森田和郎の将棋』(1984年)をプレイしたときに疑問を感じ、アンケートハガキを出しました。それがきっかけで『ウイングマン2 -キータクラーの復活-』(1986年)の作曲をエニックス依頼され、これがドラクエにつながったことはよく知られています。

昭和のゲーマーイメージ(画像:写真AC)



 また、すぎやまさんはコアなゲーマーでした。もともとバックギャモンやスロットマシンなども集めており、早い時期からパソコンゲームに熱狂していました。ドラクエで一躍名が轟いた1988年に、すぎやまさんの港区の自宅を訪問した新聞記事が残されています。

「机の上にはパソコンが2台。後ろにはCDなどのオーディオ機器、ピアノ、シンセサイザー。いすを回転させるだけで、これらの仕事道具に手が届く。そして、机の前方にはテーブル型のテレビゲーム機が2台とアメリカ製のスロットマシンもある。天井を高くとってあるため、これだけのものがあっても広々とした印象。はしごで上がる屋根裏風の収納スペースに本や楽譜類は片付けてある。大ヒットしたファミコンゲーム「ドラゴンクエスト」の音楽もすぎやまさんの作品だが、伝統的なバックギャモンをはじめ各種ゲームのコレクターとしても知られる。机の上のパソコンも、すぐゲームの画面に変わってしまう」(『読売新聞』1988年6月2日付朝刊)

 なんともうらやましい書斎……いや、「オタク部屋」といったほうが正しいでしょう。港区でこんな充実した部屋を持っていたのですから、夢は広がります。しかもゲームソフトは家には置ききれず、「ゲームハウス」という家を別に持っていたのです。

 文化の爛熟(らんじゅく)した東京で、すぎやまさんが長くを過ごした人生は本当に充実していたのだろうなと容易に想像できます。

 ドラクエの楽曲がいつまでも私たちの心を奮い立たせる理由は、クラシック愛好家だった父親からの影響、才能ある友人たちとの邂逅、洗練された東京文化などの存在があったからといって間違いないでしょう。

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