バブルに翻弄された巨大プロジェクト「臨海副都心」 開発の背景には一体何があったのか?

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バブルに翻弄された巨大プロジェクト「臨海副都心」 開発の背景には一体何があったのか?

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山下ゆ

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港区台場と江東区青海・有明と、品川区東八潮からなる臨海副都心。1980年代から始まった同エリアの開発計画から完成までの背景について、ブログ「山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期」管理人の山下ゆ さんが紹介します。

スタートは「東京テレポート構想」

 今回紹介する平本一雄『臨海副都心物語』(中公新書)は現在品切れ中であり、電子書籍化もされていないため、読むとすれば古本で手に入れる必要があります。なぜそんな本を紹介するのかというと、本書で書かれている巨大プロジェクトの経緯が非常に興味深いものだからです。

 プロジェクトが大きくなればなるほど、利害関係を持つアクターは増えますし、長い準備が必要となり、その間には思いもかけない社会情勢の変化が起こります。

 本書で紹介されている臨海副都心計画は、まさにその巨大さからさまざまなアクターが関わろうとし、そしてバブルとその崩壊に翻弄(ほんろう)されたプロジェクトでした。

 著者は三菱総合研究所において数々の都市開発に携わった人物で、臨海副都心計画の最初期からプロジェクトに関わり、そしてさまざまな無理難題に直面することになります。

1996(平成8)年12月に撮影された臨海副都心。前年にゆりかもめが開通した(画像:東京都港湾局)



 もともと、臨海副都心の計画は「東京テレポート構想」から始まったといいます。これは情報通信基地とインテリジェントビルからなる新しいビジネスセンターでした。

 東京テレポートの計画は1985(昭和60)年に発表されますが、この計画は、都心のオフィス需要の拡大や都市機能分散の必要性から、副都心計画へと拡大していきます。

 東京テレポートが約40haの面積だったのに対して、副都心として開発の対象となる地域は448haと10倍以上でした。著者は、ここに軸状のセントラルパークを配置し、「働く」「住む」「遊ぶ」という三つの機能を持たせる場所にしようと考えます。

 しかし、プロジェクトの大きさとバブルという時代がプロジェクトを拡大させていきました。

 東京のオフィス需要はますます高まり、また当時の中曽根政権は内需拡大策を求めていましたが、このふたつを満たすものが巨大な都市開発だったのです。

 当時の金丸信副総理は天野光晴建設大臣や綿貫民輔国土庁長官を引き連れて、現地視察を行い、「臨海部開発を民活(民間企業による大規模開発)の目玉に」と主張しました。

東京圏の商業地は1年間で1.5倍の価格に

 こうなると国と東京都の開発のイニシアチブをめぐる綱引きが始まります。

 当時の鈴木俊一都知事は東京都中心の計画の策定を急ぎますが、そのために計画立案のスケジュールは圧縮されました。普通ならば2年ほどかかるところを6~8か月程度で行わざるを得なくなったのです。

 さらに計画には、世界的な建築家の丹下健三が関わることになります。

 丹下健三は1964(昭和39)年の東京オリンピックでは国立代々木競技場を設計し、1970年の大阪万博では建築プロデューサーを務めますが、東京オリンピックを副知事として支え、大阪万博では万博協会事務総長だったのが鈴木都知事でした。

鈴木俊一都知事。1991年撮影(画像:時事)



 丹下健三は、コンクリートによる人工地盤を中心とした開発計画を引っさげて、臨海副都心計画に食い込もうとしていきます。これは著者らの考えた計画とは相いれないもので、著者らは丹下健三という世界的権威にも悩まされることになります。実際どうだったのかはともかく著者の丹下健三に対する評価は非常にネガティブで、それは本書のいたるところに出てきます。

 このように巨大化していくプロジェクトですが、それを後押ししたのがバブルです。

 東京圏の商業地の価格は1986年から1987年に1.5倍に、さらに1988年には1.6倍に高騰していきます。こうしたなかで、臨海副都心計画には広大な土地を供給することにより地価の高騰を一服させる役割が期待されました。

 このため、土地は売却せずに長期貸与する手法が採用されます。ただし、商業地の地価は1平方メートルあたり平均253万円と強気の価格設定がなされ、しかも権利金として地価の50%、賃料は地価の3%で、3年に1回賃料が「年率6%プラス物価上昇率(想定は年2%)」分上がっていくという仕組みになっていました。

 市場の動向とは関係なく、賃料が年に8%近く上がるというのは、現在では想像できないような条件ですが、それでもバブルの最中には進出したいという企業が殺到し、一区画あたり約6倍の競争率となりました。

突如湧いた「東京フロンティア」構想

 1990(平成2)年の11月には、応募した企業の選考結果も発表され、いよいよ基本的な都市の枠組みが出来上がってきますが、同時にバブル崩壊の足音も忍び寄っていました。

 1991年の都知事選では、鈴木都知事が磯村尚徳らを大差で破って4選を決めますが、高騰した東京の地価も下がり始めるなど、経済状況はますます悪化しました。臨海副都心へ進出予定の企業も計画の見直しを余儀なくされ、都に対して地価の値引きや賃料の減額を求めるようになります。

 こうしたなかで開発の起爆剤として持ち上がってきたのが、1996年に予定された臨海副都心地区での都市博覧会の開催です。「東京フロンティア」と名付けられていたこの構想は丹下健三が熱心に推進したものであり、3000万人入場、300日間開催、30万人宿泊という大きな数字が並べられた巨大な構想でした。

 しかし、1993年3月の時点で25館を予定していた民間パビリオンの申し込みは8企業・グループにとどまります。郵政省や建設省などに出展を要請しなんとか形を整えますが、何が目玉なのかよくわからない博覧会となりました。

 それでも都市博の準備は着々と進んでいきますが、これが1995年の都知事選でひっくり返ります。都市博の中止を公約に掲げた青島幸男が、自民党や公明党が支持した石原信雄らを破って勝利したのです。

 青島都知事はためらいますが、最終的には都市博の中止を決断し、都市博の準備作業は一転して撤退作業となります。都市博の仕事を請け負っていた個人や業者は一斉に仕事を失うことになり、大きな混乱をもたらしました。

 臨海副都心計画の見直しに関しても、見直しのための有識者懇談会では推進派と青島都知事から推薦を受けた抜本的見直し派が対立し、しかもその対立に対して青島都知事は有効な決断を下すことができませんでした。

港区台場にあるグランドニッコー東京台場(画像:(C)Google)



 こうした迷走を受けて、企業の臨海副都心への進出意欲はさらに冷え込み、大型ホテルのグランパシフィック・メリディアン(現・グランドニッコー東京台場)は開業延期に踏み切ります。

 オフィスビルへの入居も低調で、1995年9月21日の『東京新聞』朝刊には「空気を運ぶ? ゆりかもめ」という大見出しの記事が掲載されました。

ゆりかもめ開業がもたらしたもの

 しかし、1995(平成7)年11月1日にゆりかもめが開業すると、予想以上の乗客を集めます。

 1996年3月には「ホテル日航東京」(現ヒルトン東京お台場)が開業しますが、都市博の宿泊客需要を見込んでのオープンであり、都市博が中止になった以上、業績の低迷は必至と思われました。ところが、こちらも週末にはカップルが詰めかけて満室になるなど思いがけない人気となります。

 1997年4月にフジテレビの新社屋がオープンすると、お台場を含めたこの地域は観光やレジャーのスポットとして高い人気を獲得していくようになっていくのです。

平本一雄『臨海副都心物語』(画像:中央公論新社)



 臨海副都心計画というビッグプロジェクトは、その大きさゆえに国や世界的建築家などのさまざまな介入を招き、また、予想外だったバブルとその崩壊、さらには選挙で示された民意が、プロジェクトの姿を大きく変えていきました。

 本書はその経緯と、そのなかで悪戦苦闘する著者の姿と、観光地としての成功という思わぬゴールを教えてくれます。

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