いったい何者? 東京にやたらと「太田道灌」の伝説が残っているワケ

東京について調べ物をしていると、あちこちで見かけるのが「太田道灌」の名前。いったいなぜでしょうか。ライターの春日ルナさんが解説します。


太田道灌がやってくるまでの東京

 そもそも、太田道灌はなぜこんなにも関東のあちこちに出没しているのでしょうか。

「太田道灌は何をした人?」と聞かれたとき、多くの人は前述のように

・江戸城をつくった人
・江戸の街をつくった人

と答えるでしょう。そこに大きなヒントがあります。

新宿中央公園にある太田道灌の像(画像:写真AC)

 都内や近郊で博物館に行ってその街の歴史をたどる常設展を見ると、ある共通点に気づきます。

 それは、縄文時代の遺跡の説明や土器などの遺物の展示には力が入っているにもかかわらず、江戸時代の展示までのあいだの古代や中世にはほとんど触れられていないケースが多いことです。つまり、太田道灌がやってくるまでの東京は

「何もないといっても差し支えない場所」

だったわけです。

道灌の生い立ち

 太田道灌は、室町時代(1432年)に鎌倉公方(くぼう)を補佐する関東管領(かんれい)上杉氏の一族・扇谷上杉家の家宰(かさい。家長にかわって家の仕事を取りしきる人)だった太田資清(すけきよ)の子として生まれました。

 鎌倉公方とは、室町幕府が関東を支配するためにつくった出先機関です。その後、家督を継ぎますが、将軍家や公方家、管領家の争いのなかにあり、穏やかではない人生でした。

 古河公方(茨城県古河市にあった幕府の出先機関)との争いで、道灌は父とともに河越城(埼玉県川越市)や岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)を築いたとされます(岩槻城は別の説もあり)。その後、房総の千葉氏を抑えるために、利根川下流域に城を築く必要が生じます。そこで築城する場所として決めたのが、江戸氏の領地であった武蔵国豊嶋郡。のちに江戸城と呼ばれる城です。

江戸城・皇居(画像:写真AC)

 この地に定めたことについても

「霊夢のお告げがあった」
「品川沖を行く道灌の舟にコノシロという魚が踊り入り、吉兆と喜び江戸に城を築くことを思い立った」

などの言い伝えがありますが、定かではありません。ともかく城は無事に築かれ、周辺には日枝神社や平河天満宮などがつくられました。また、皇居には現在も「道灌堀」という名前の堀が残されています。

 歴史的事実は古文書や古記録、あるいは発掘の成果から明らかにされますが、道灌のことを逐一追ったもの、当時の江戸(いまだ江戸ではない場所)を記したものは残されておらず、道灌は江戸の祖として「伝説の存在」だといえるのです。そして、道灌の伝説がいたるところに広まったというわけなのです。

北区赤羽にも城を築いた道灌


【地図】355年前の江戸

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